いつもと同じ、一番奥の診療室へ入る。診療台に座る一晴の表情は、治療を始めた頃に近いように見えた。
一晴にエプロンをつけ、その顔を覗き込む。なるべく治療中以外はそうしているように、まだマスクはしないでおいた。
「今日は左上の詰め物を取って、虫歯になってるところを綺麗にしようね」
一晴は膝の上で両手を握りしめながら頷いた。診療台を倒してライトを口元に向けると、その手はお腹の上で固く組まれる。深呼吸も繰り返していて、ひどく緊張しているのは明らかだった。
「一晴」
呼吸に合わせてゆっくり上下している胸に手を置いて呼びかける。ぴくりと腕が動いて、徐々にこちらへ視線が向けられた。
「しんどかったら無理しないでね」
「大丈夫」
「大丈夫? 止めてほしいときはすぐ教えてね。今日もお口開ける道具使ったり、押さえたりしないからね」
ありがと、と一晴は少しだけど笑ってくれた。
「まずは塗る麻酔するね」
表面麻酔はマスカットの香料がついたものを選んだ。
口を開けるよう促すと一晴はしっかり開けてくれたけれど、口の端から指を入れると力が入っているのがわかる。
話をしながら表面麻酔を塗布した後しばらく置いて、浸潤麻酔をするために口を開けてもらったときも力の入り方は変わらなかった。少し視線をずらすと、肩も上がっている。
「力抜いてね。痛くないようにするから」
口元から手を離して声をかける。一晴が頷いたので再び指を入れて頬粘膜を引っ張り、針を歯肉頬移行部に浅く刺入した。薬液を1滴入れて一晴の表情を確認すると、変化はない。静かに呼吸音が響いている。
「そのままゆっくり深呼吸だよー……うん、上手」
針先を進めては薬液を少し注入する。時間をかけてそれを繰り返し、針を抜くまで一晴の顔が歪むことはなかった。
「気分悪かったりしない?」
「うん」
「大丈夫だね。椅子起こすから、うがいしてね」
ライトが消えると一晴の体から少し力が抜けたのがわかった。
一晴がうがいをする間、俺もひとつ息をつく。それからすぐに切削の準備に取り掛かった。