排唾管を入れると、今度は落ち着いた様子で軽く口を開けていてくれた。表情も確認したけれど泣いてしまうこともなかった。
「じゃあもっかい虫歯の所取っていくね。あーん」
大きく開かれた口にミラーとコントラを入れる。
「止めてほしいときは左手挙げてね」
バーの先を歯に当てると、休憩する前に感じた通り手に伝わってくる感触が最初と違う。一晴の反応に注意していたけれど、痛みはないようだった。
「一晴、もうちょっとだからね」
黒ずんだり褐色になった部分をほぼ取り終えた所で、5番と6番と併せて齲蝕検知液を使ってみる。5番は遠心、6番は咬合面に染め出された箇所があった。
「ちょっと引っかくよ」
5番の染め出された部分をエキスカで取り除いていく。一晴の体に力が入って、ふ、と小さく息が漏れた。
「痛い?」
「ううん。……ちょっと、響いただけ」
響くだけでもきっと怖い。でも一晴は俺を見て「大丈夫だよ」と念押しするように言ってくれた。
「じゃあ続けさせてね」
5番は間もなく齲蝕を取り終えることができた。そして6番。染め出されている部分が5番より広いのでまずはコントラを使う。切削を続けるうちに、一晴がしきりに呼吸を繰り返していることに気づいた。
「一晴、大丈夫?」
痛いのではと不安になり、コントラを置いて尋ねる。エプロンを握りしめているのも気になった。
でも、疲れたような表情をしながらも一晴はしっかり頷いた。目に涙が浮かんでいるようなこともない。
「あと少しだけ、さっきみたいにカリカリって細かい所取っていくね」
「ん」
「あーん」
深呼吸をしてから、一晴が口を大きく開けた。もう一度齲蝕検知液を使うと、6番に残った齲蝕が数ヶ所染め出された。まずは痛みのなさそうな浅い所を取り除いてから、コントラで深く削り大きく窪んでいる所にエキスカを向けた。青く染まっている歯質にエキスカで触れ、ぐっと力を入れる。
「んぅ」
響いただけと言っていたときとは明らかに違う、一晴の声が漏れた。
「痛い?」
「だいじょうぶ」
迷ったけれど、治療を続けることにした。あとわずかなので、早く終わらせるのが一番いいように思う。
「おっきく開けてね」
ミラーを持った左手で頬粘膜を押さえ、エキスカを口に入れる。歯質を刮ぐたびに、一晴は小さく声を漏らした。歯髄に近い所を触っている。大丈夫と言っていたけれどやはり痛みがあったのだろう。もう一度検知液を使って取り残しがないことが確認できると、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「一晴、綺麗になったよ」
「そっか……」
まだ現実味がないように一晴が呟く。
「頑張ったね」
マスクを下げ、一晴の肩に手を置く。次第に一晴の表情や体から力が抜けていき、目に涙が滲んだ。
「ん、ほんと頑張ったよ。痛い思いさせてごめんね」
「ううん、大丈夫だよ。晃平」
涙は滲ませたけれど、一晴は泣かなかった。大丈夫だよ、という言葉もなんだか力強い。
単に治療が終わったからという理由ではなく、診療室に入ってきたときの一晴とは何かが大きく変わっているような気がした。