晃平と場所を交代し、元の診療台に座る。
器具を使ってしまったので、晃平は新しいものを取りに行ってすぐ戻ってきた。
「じゃあ麻酔からしていくね」
「痛い……?」
この前も根っこの治療の前にした麻酔は痛かった。それが忘れられず、不安になって訊く。
「痛くないよ。今からする麻酔は、この前の治療でも一番初めにしたやつ。そんなに痛くなかったでしょ?」
「痛くなかった」
「この前は最初の麻酔があまり効かなかったから、歯の中にも注射したんだけど、そっちは痛かったよね。ごめんね」
「う……ううん。あの麻酔したあとは、痛くなかったから……」
「今日は痛くない麻酔だけで大丈夫だからね」
始めてもいいかな、という問いかけに頷いた。
診療台が倒され、ライトがつく。器具を取る音がして、晃平の指が唇に優しく触れた。
「塗る麻酔するよ。あーん」
やっぱり心臓の鼓動は速くなる。でも一回深呼吸をして、口を開けることができた。
「すごいなぁ」
すかさず晃平が褒めてくる。口を開けただけで恥ずかしいけど、さっきはこれすらできなかったんだから前進には違いない。
「引っ張るよー」
口角を指でそっと引っ張られ、ピンセットでつまんだ綿で歯茎に薬が塗られる。この前はミントのにおいだったけど、今日は違うみたいだ。果物系だと思う。少し爽やかな感じ。
「綿置いたまましばらく待つね。お口楽にして大丈夫だよ」
晃平の手が口元から離れ、ライトが消された。
「今日のお薬、何のにおいかわかる?」
診療台を少し起こして、横から晃平が尋ねてきた。真上から見下ろされるより歯医者さんという感じが薄れて少し心臓が落ち着く。
しばらく考えると答えが思い当たった。
「ぶどう?」
晃平が俺を指差し、正解、と笑った。
「マスカットだよ。旬だからか最近ぶどうの飲み物とかケーキとかよく見るよね」
「うん」
「暖も、一晴の働いてる店で飲んだって言ってた」
「聞いた」
「あ、一晴も聞いた? 気に入ったみたいだったね」
2、3日前のことだ。仕事の合間に寄ったと言っていた。暖に勧めたことがあったから気に入ってくれて嬉しかった。
「俺も飲みたいな。早く行かなきゃね」
いつの間にセットしていたのか、ピピピとタイマーが鳴る。綿外すね、と晃平が診療台を倒してライトをつけた。
口を開けると、入れた時と同じように晃平が指で口角を引っ張り、ピンセットで綿をつまみ出す。
「このまま麻酔してもいいかな?」
「うん」
「じゃあお口このままね。もう少し引っ張るよー」
口角を引っ張っている晃平の指にぐっと力が入り、右手も近づいてきた気配がする。
「ゆっくり鼻で呼吸してね」
ツンと歯茎を押された感覚があり、その後じわじわと薬が入れられていくのがわかった。自分の、息を吸って吐く音がよく聞こえる。
「気分悪くない?」
「ん……」
「よかった。もっかい押すよー……はい、OK。うがいしてね」
ライトが消えて診療台が起こされる。麻酔はこの前より早く終わった気がした。