すぐには治療せず、少しずつ慣れていこうと晃平は言ってくれた。
「椅子倒さないまま口開けてみようか」
そう提案され、恐る恐る診療台に頭と背中をつける。
「何も持ってないよ」
晃平が胸の前でぱっと両手を開いた。確認して、頷く。
「開けられる?」
俺の顎に手を添え、晃平が尋ねる。鼻から下はマスクで覆われていて、緊張感が増した。
大丈夫。見るだけ。痛いことはない。心の中で繰り返してから、口を開けようとした。
「……待って」
頭をよぎったのは、さっきと同じ、指が口をこじ開けてくるような想像。それから、昔の、前回の、さっきの、上手く治療を受けられない自分。晃平のおかげでせっかく冴えた頭も「できない」その四文字で埋め尽くされていく。でも言えない。
晃平は待ってくれていたけど、しばらく経つと俺の顎から手を離した。
「待って……もうちょっとしたら、きっと、できる……」
できる自信はない。でもやらなきゃいけない。半分は自分に言い聞かせるようにして晃平に訴える。すると晃平は何か決意したように頷いた。ところが、投げかけられたのは単純に「待つね」という言葉ではなかった。
「じゃあ待ってる間、交代しよう?」
「交代?」
「そう。座ってる場所、交代しようよ」
「え、でも」
「こっちに座ったほうがあんまり怖くないんじゃない?」
十分に理解はできないうちに、晃平に促されるまま場所を代わる。晃平は診療台、俺は歯医者さんが座る椅子。
診療台より怖くないけど、戸惑いが大きい。すぐ横の台には治療に使う器具が並んでいる。落ち着かず視線をあちこちに向けていると、診療台に背中を預けた晃平が尋ねてきた。
「一晴も歯医者さんになってみる?」
「え……」
「俺の検診、してみない?」
「な、何言って」
「そこの鏡、使っていいよ」
晃平が指さしたのは、検診や治療でよく使われる道具。
「無理……こんなの、俺が触れるわけ……」
「別に違法でもなんでもないよ」
「それはそうだけど……」
やっぱりこれは歯医者さんが使う道具で、患者の俺が触るのは抵抗があった。
「俺、結構患者さんにも触ってもらったりするんだよ。だって自分の口の中に入れるものでしょ? 確かめてもらってからのほうが怖くないかもって思って」
やっと、晃平が突然こんな提案をした意図がわかってきた。治療や、歯医者そのものに慣れさせようとしてくれているんだ。
「一晴も使ってみてよ」
恐る恐る手を伸ばし、鏡を取ってみる。銀色の柄は想像していたより冷たくなかった。口に入れられるのはとても苦手だけど、持っているだけならそれほど怖くない。
「おー、似合うね」
晃平が親指を立てる。
「……あんま嬉しくない」
「ごめんごめん。でも俺は全然診てもらいたいなって感じする」
「どういう意味?」
「頼もしいなって」
「そ、そう……?」
手に持った鏡と自分と晃平を見比べる。どう考えても似合うのは俺じゃなくて晃平だけど、晃平の言葉といい柔らかい表情といい、悪い気持ちはしない。
「というわけで診てください」
「それも本気なの……?」
「うん。あ、もちろん一晴が嫌じゃなければだけど……たぶん見るのが生理的に無理な人もいるからね」
「そういうのはないけど」
「じゃあお願い」
晃平は一旦体を起こして俺にライトの使い方を教えてから、再び診療台の背もたれに寄りかかった。教えてもらった通りにライトをつけ、晃平の口元に合わせる。晃平は眩しそうに目を眇めながらも、俺を見てはにかんだ。
「なんか照れる」
「本当にいいの?」
「いいよ」
「……じゃあ」
鏡を晃平の口に近づけると、晃平はためらいなく口を大きく開けた。
こんなふうに開けられるってことは、晃平は歯医者で怖い思いをしたことなんかないんだろうな。もしかしたら虫歯になったこともないのかも。
そう考えながら鏡を晃平の口に入れた。
「……え?」
目に入ったのは、想像していたのとは少し違う光景だった。
綺麗に並んだ、白い歯。でも奥歯には所々治療の痕がある。特に左上の一番奥の歯に入っている詰め物は噛む面の大部分を覆ってしまうくらい大きい。
「ん?」
どうしたのと言うように晃平が俺に視線を向けた。
「ううん……」
虫歯あったんだね、なんて言うのは悪い気がしたから、他の歯に目を移した。慣れないし、どの程度見ればいいのかもよくわからなかったけど、一通りは全体に視線を巡らせる。
元の位置に戻って終わろうかと思いながらも、やっぱり左上の歯は気になってしまった。
「……ここ、治すの辛くなかった?」
手を動かしたはずみに、カチ、と鏡が詰め物に軽く触れた。
「あっ、ごめん……っ」
鏡を口の外に出す。大丈夫だよ、と晃平は笑っていた。
「治すのはちょっと痛かったかな。でも、今は全然。痛くもないし、違和感もないし」
「そっか……。晃平も、痛かったことあったんだ……」
痛かった経験があっても、こんなふうに口が開けられるようになるんだ。それを目の当たりにできたことは、俺にとって支えになる気がした。