2回目の治療は、バイトの帰りに行くことになった。最近は晃平と二人きりになるのがなんだか苦手で、晃平が迎えに来ると言ってくれたのも断ってしまった。
約束は20時。軽く夕食をとって歯磨きをしてから向かった。本来の診療時間が終わってから1時間後だそうで、歯科医院に着くと中に人の気配はない。
この前は周りを見る余裕なんかとてもなかったけど、見渡してみると新しくて綺麗な病院だ。待合室の照明は白というより淡いオレンジ色で家のリビングと似ている。でもうっすらと漂う臭いはここが歯科医院だということを忘れさせてくれない。診療室に近づくのはとても勇気が要った。
「晃平?」
待合室と診療室を隔てる引き戸を細く開け、呼んでみる。引き戸の向こうには、通路を挟むようにして半個室の診療スペースが並んでいる。一番奥、突き当たりの部屋からかすかに音がしたと思ったら、晃平が顔を出した。
「あ、一晴。来てくれてありがと」
白衣を着た晃平が近づいてくる。後ずさりたくなったのは堪えたけど、晃平のこの姿にはまだ慣れない。
「探した?」
晃平が首を傾ける。茶色いくせ毛がふわりと揺れた。いつだったか俺みたいなストレートヘアに憧れると言っていた晃平だけど、この髪は晃平の柔らかい雰囲気によく似合っているしかっこいい。俺のほうが髪を染めてパーマをかけてみたくなるくらい。
「そんなに探さなかった」
「よかった」
そう言って微笑んだ後、晃平の纏う雰囲気が変わったのを感じた。
「……中入れそう?」
「うん」
引き戸の向こうに足を踏み入れ、晃平の後ろをついていく。この前治療を受けた一番手前の診療室は通り過ぎ、「こっち」と晃平が指さしたのは、最初に晃平がいた一番奥の部屋だった。入ってみるとこの前の診療室より広々としている。
「カバン、ここに入れて座ってね」
晃平が診療室の隅に荷物入れ用のカゴを置いてくれた。そこにトートバッグを入れ、診療台のほうを向く。クリーム色の診療台。ただの椅子がどうしてこんなに怖いんだろうといつも情けないけど、今日も座ろうとすると息が苦しくなった。なんとか浅く腰掛け、膝を掴む。
大丈夫、この前だってあんなに痛い治療を最後まで受けられたんだから。自分で自分に言い聞かせる。いつもこうしてきた。人並みに我慢はできないけど、かろうじて治療は受けてきた。
息苦しくて脈も速いけど、たぶん、今日もなんとかなる。始まってしまえば終わるのを待つだけだ。
「この前も話したけど、今日は根っこのお掃除の続きをしていくね」
治療の約束をした時に晃平が説明してくれていたので、すぐに頷けた。この前ほど痛くないとは聞いているけど、晃平が緊張した様子なので余裕で耐えられる程度というわけではないんだと思う。
エプロンをつけられ、診療台が倒され、ライトがついて、準備が整う。始まるんだ、と思うと喉の奥には重くて熱い塊が詰まったような心地がした。
「麻酔するね。あーん」
晃平の指が唇に触れる。その瞬間、指がずるりと口の中に入ってくる錯覚に襲われ、心臓が胸を内側から叩いているように感じるくらい鼓動が速くなっていく。口を開けようとすると唇が震える。思い出したのはこの前の注射の痛みだった。
「ううぅ……」
口は全然開けられないのに声だけが漏れて、目尻からは涙がこぼれた。
「一晴……」
「う、だいじょぶ……」
晃平の指が離れていく。
「椅子起こそうか」
「待って、できる……」
「起こすよ」
晃平がライトを消して診療台を起こしてくれた。治療の始まりが少し遠のいたのに、安心感は全くない。むしろ焦りと後悔だけが胸いっぱいに広がった。
どうして口を開けられなかったんだろう。
子どもの頃を思い出す。俺は頑張って開けているつもりでも歯医者さんが治療するには足りないらしく、すぐ口を開ける道具を使われたり押さえつけられたりしていた。
だけど晃平は前回の治療のとき、絶対それはしないと言ってくれた。その代わり、俺は口を開けるのを頑張る。そういう約束だった。
それなのに俺のほうから約束を破ってしまった。始まる前から口を開けられないなんて、この前より悪い形で。
「晃平……ごめん」
「ううん」
涙を拭ってから恐る恐る見上げると、晃平はマスクを顎にずらしていた。眉尻は下がり、唇を噛んでいる。
「ごめんね。俺がこの前怖い思いさせたから」
「違う……!」
晃平にこんな顔をさせていることでますます罪悪感が募った。
「違うよ。……全部、俺が弱いだけ」
昔からそうだ。歯医者さんに言われた。全部「口を開けない」「大きな虫歯を作っちゃった」俺のせい。だから、仕方がない。
「……晃平、どうにでもしていいよ」
「どうにでもって」
「口開ける道具、使っても、いい……し、縛っても、いいし」
震える声で言うと、晃平が目を見開き、診療台に手をついた。
「何言ってんだよ一晴」
「晃平が治療しやすいようにして……。俺……っ」
この前の治療を思い出すと、口を開ける自信がなかった。また診療台を倒された後に口を開けられなくて晃平を困らせるよりは、もういっそ、と思ってしまった。
「俺、きっと、そうしないとできない……」
でも晃平に無理矢理治療されることを想像した途端、言葉にできない思いがせり上がり涙になって溢れ出した。手で口を覆い、なんとか押し戻そうとする。治療が始められないうえにこんなに泣いている自分が許せない。
だけど晃平は俺の背中に腕を回してさすってくれた。
「一晴、そんなこと言わないで? 無理矢理は、俺ができなくなるから」
「晃平が……?」
「うん。苦手なの」
晃平は俺に顔を近づけて囁くように言った。
「歯医者さんはみんな、そのほうがやりやすいんじゃないの」
「そんなことないよ。たしかに、押さえたりするのが必要なときもあるよ。俺もこの前、やったよね」
歯の中に麻酔を打たれたときのことを思い出し、心臓がぎゅっと縮まった。背中に触れている晃平にも伝わったのか、ごめんね、と謝られる。
「あの時は針も持ってて、もし動いちゃったら危ないと思って」
「俺が……我慢できないから……」
「違うよ。我慢したくても痛いと反射で動いちゃうことがあるよね? 一晴が上手に治療受けられないからあんなふうにした訳じゃないんだよ」
「そうなの……?」
ずっと俺が悪いんだと思っていた。でも違うなら、どんなに気が楽になるかしれない。しかも他ならない晃平がそう言ってくれるなら。
「信じていいの?」
「信じてよ。一晴がすごく頑張って治療受けてるのかっこいいなって思ってるんだよ」
「それは絶対言い過ぎ」
「言い過ぎじゃないよ。だって俺で例えたら一人で蜂と戦うようなもんだからね?」
蜂? 突然飛び出した例えに意表を突かれ、ぴたりと涙が止まってしまった。
「……蜂と戦うのは危ないからね?」
「まあまあ、例えね!……俺さ、虫が苦手でしょ。あれ実は、昔怖い思いした経験がきっかけで。一晴にとっての歯医者みたいなものなのかな、て思って」
虫を見かけると叫んで逃げ回る晃平が思い出される。対象が違いすぎて比較が難しいけど、苦手のきっかけと度合いは確かに、似ているのかもしれない。
「だけど一晴は全然逃げないの、すごいよ」
「……ずっと逃げてて、でも痛くて仕方なく来ただけだよ」
「でも、今日は我慢できないほど痛くはないでしょ? なのに逃げないで来てさ。強いよ、一晴は」
歯医者に来るなんて大抵の大人には普通にできることだと思うのに、晃平は心の底からそう思っているような大真面目な顔をしていた。
「俺も頑張ってる一晴の力になりたい。どうすれば治療しやすいか、一緒に考えてこう?」
歯医者さんにこんな言葉をかけられたのは初めてだった。頭の中にまで広がっていた負の感情が薄れていき、思考がクリアになっていくのを感じた。
「ありがとう。お願い、します」
「こちらこそ」
晃平が俺の肩を抱き寄せる。少しためらいながらも、俺も晃平の背中に手を回して白衣を掴んだ。