治療は計画通りに進み、それから数週間のうちに左下の歯まで治療が完了した。被せ物や詰め物が入ったので食事も問題なくできる。歯医者への苦手意識もまだ人よりは大きいと思うものの、以前よりは薄れていた。
残るは左上だけ。下の治療が終わっても冷たい水が沁みる症状は残っていて最近少し悪化しているから、晃平の言っていた通り沁みていたのは上の歯だったみたいだ。
でも、それも次回の治療を頑張って悪い所を取り除いてもらえば沁みなくなるはずだ。深い虫歯だから緊張も不安もあるけど、晃平と一緒ならきっと大丈夫だと信じている。
治療を翌日に控えた夕方。珍しくサークルもバイトもなかったので、まだ早い時間に帰宅した。西日の差し込む家の中には晃平も暖もいない。
今日の夕食はなんだろう。いつものようにそんなことを考えて、久しぶりに自分が作ってみようかと思い立った。
手を洗ってからキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。いつも晃平が週末に買い置きをするから、金曜日の今日、食材はだいぶ少なくなっていた。
メインになりそうなのは冷凍されていた鶏肉。俺のレパートリーは少ない。すぐに思いついたのはカレーだったけど、つい最近食べたばかりだ。
シチューはどうだろう。今日は寒かったし、美味しそうだ。カレーを作る要領でルーだけ変えればいいはず。玉ねぎ、じゃがいも、人参もある。
ルーはたしかここだった。調理台下の引き出しを開けると、調味料や缶詰などが綺麗に収納されている。カレールーもすぐに見つかった。
でも、いくら探してもシチューのルーは見当たらなかった。買い置きはしていないのか、もしかすると晃平のことだから市販のルーを使わないのかもしれない。グラタンを作ってくれたときも素は使っていなかった気がする。
晃平と暖が帰ってくるまでにはまだ時間がある。ルーを買いに行っても二人が帰ってくるまでに作り上げられそうだと判断して、近くのコンビニへ出かけた。
コンビニまでは歩いて5分程度。小さなコンビニで、シチューのルーも1種類しか置いていなかったので迷わずそれを手に取る。ついでにおかずの足しとしてコロッケを3個買って、袋を片手に家へ戻った。
家が見えてきた時、家の前に赤い乗用車が止まっていることに気づいた。お客さんだろうか。駆け寄ると、ちょうど玄関のほうから車の持ち主と思しき人が出てきた。若い男性で、手には紙袋を下げている。
「家に用ですか」
「ん? ここの人?」
こちらを見たその人から歯医者を思わせる消毒薬のような臭いがして、思わず一瞬顔を顰めてしまった。もしかして晃平の知り合いだろうか。歳は晃平と同じくらいに見える。
「そうです。あと二人いますけど、誰かの」
お知り合いですか、と言う前にその人が俺にずいっと顔を近づけた。
「君さ、もしかして一晴くん?」
「え……?」
「わかんないか。南野って言ったら思い出す?」
その名前を聞いた瞬間、心臓をぎゅっと掴まれた感じがした。
南野。みなみの歯科は俺が子どもの頃通っていた歯科医院だ。
「な、なんで……誰……ですか」
一歩後退り、震える声で尋ねると、その人は困ったように頭を掻いた。
「あー、嫌なこと思い出させちゃった? ごめんね。俺あそこの息子で、昔たまに手伝ったりしてたんだよ」
一度深呼吸する。ということは恐らくこの人も歯医者さんなのだろう。動揺してしまったけど、晃平の知り合いで用があって来たとすれば何も怖くない。
「もしかして晃平に用ですか」
「そうそう! これ渡しといて」
南野先生は俺に紙袋を差し出した。受け取ると、中にはジャケットが入っているのが見える。
「学会のときに借りてさー。なんかあいつ気もそぞろでもう返さなくていいって言ってたけど、んなわけないでしょ。クリーニングも出しといたから」
「あ、ありがとうございます」
「いや一晴くんがお礼言わなくても。てか晃平と一緒に住んでるとは驚きだわ。偶然? もしかして晃平に誘われて?」
言われている意味がよくわからず、首をかしげてしまった。
「偶然……というか、晃平とはここで初めて会ったので……」
「ん? あれ? あの頃からの付き合いじゃないの?」
「あの頃って」
「晃平、うちでバイトしてたじゃん」
何を言われたのか、理解するのに時間がかかった。そして理解した瞬間、その事実を呑み込めず、既に答えの出ている質問がこぼれた。
「バイトって、歯医者の」
「うん、歯科助手のバイト。一晴くんの診療にもついてたことあると思うけど」
歯科助手。あの頃、歯医者さん側の人たちはみんな怖かった。数人がかりで体を押さえられたこともあった。晃平も、あの中にいた?
「俺は晃平とあの頃に知り合ったから、てっきり一晴くんもそうかと思ったよ」
「……そんなはず、ない」
晃平とは、ここに引っ越してきた日にお互いはじめましてを言った。晃平が俺を知っている素振りは全くなかった。
「まぁあの頃ゆっくり話す機会はなかったのかもな。もしかして晃平も気づいてなかったり? あ、でもあいつが小児苦手なのって」
「やめてください」
訳のわからないことを喋り続ける南野先生を衝動的に遮った。
「言われてることがよくわかりません」
「ごめんごめん。でも晃平、絶対覚えて――」
「ジャケットは晃平にちゃんと渡しておくので。失礼します」
「お、おお」
南野先生に軽く頭を下げ、足早に玄関に向かうと鍵を開けて振り返らずに中に入った。ガチャンとドアの閉まる音がやけに大きく響く。
「どういうこと……」
ドアを背に、靴も脱がずにしゃがみこむ。
晃平があの時歯医者にいたなんて信じられない。南野先生の思い込みで、本当は晃平が俺の診療についていたことはなかったんじゃないか。
でも、どうしても無視できないことがある。晃平は自分が何のバイトをしていたのか隠そうとした。その理由がこれだとすれば、辻褄が合ってしまう。
でも、でも。それなら、ずっと優しく治療してくれてた晃平は、嘘ってこと?
考えても考えても納得できないし受け入れられない。いや、本当に考えているのかも自分でよくわからなかった。脳が考えることを拒否しているような気すらする。
「一晴?」
どれくらいの間そうしていたのか、ふいに背中がすうっと寒くなって暖の声がした。
「どうした? 今帰ってきたのか?」
「あ……いや……」
振り返り、慌てて立ち上がる。足が痺れていた。暖が俺の顔を覗き込む。
「何かあった?」
「い、いや……なんでもない。これ食べて。こっちは晃平に」
コンビニのビニール袋と南野先生に預かった紙袋を暖に押し付ける。
そのまま靴を脱いで、2階へ上がった。