歯磨きが終わってうがいをした後、一旦レントゲンを撮りに行った。撮ったのは全体の写真と部分的な写真を数枚。そして、帰ってくるともう一度診療台が倒された。
いよいよ検診だ。ライトがつくと、せっかく落ち着いたはずの心拍数が上がっていくのがわかって、エプロンを握りしめてしまった。
晃平の手が胸元に置かれる。当然、脈が速いのもばれてしまって「緊張するよね」と晃平は眉尻を下げた。
「でも、診るだけだよ。さっき歯磨きしてて気になった所だけ、もう一回チェックさせてほしいな」
「……え?」
「ん、どうかした?」
やられた。すっかり油断していた。「さっき歯磨きしてて気になったところだけ」ということはつまり、
「歯磨きしながら軽く検診してた……?」
「ばれた?」
晃平はあっさり認め、ごめんね、とすぐに謝った。
「もちろん歯磨きは本気でやったよ。ただ、ちょっとでも気楽にしてほしくて……」
安心したのは事実だから文句は言えない。検診らしい検診をされるより精神的な負担は軽かったと思う。
そもそも考えてみれば、歯医者さんに歯磨きをしてもらいながら歯の状態は診ないでというのが無理な話だ。
「む、虫歯、たくさんあった……?」
「たくさんはないよ。2、3ヶ所」
「本当に……?」
予想していたよりマシだというのが正直な気持ちだ。
カチャカチャと音がして、晃平が何か道具を取ったのがわかった。
「確かめてみるから、診てもいいかな? 一晴も嫌じゃなければ確認してみない?」
晃平が手鏡を差し出す。家では勇気が出なかった。でも、今は手鏡を受け取ることができた。口元を映してみる。
「無理はしなくていいよ。見れそうかなって思ったら見て、ダメそうだったらやめる、でも大丈夫だからね」
「……ひとまず、少しだけ」
「やってみる? 俺はこのまえ一晴も使ったこれしか持ってないからね」
晃平が俺に見えるように両手を持ち上げる。右手には鏡、左手には何もない。俺は頷いて口を開けた。
「治療してる所からいくね。もう少し開けられる?」
晃平が指で口角を引っ張り、鏡を入れる。俺も手鏡に映る自分の歯にゆっくりと視線を向けた。
「一番奥が治療してる歯。白いのは仮蓋だよ」
「あ……」
その歯はほとんど高さがなくなってしまっていた。
「これから被せものをして、またちゃんと噛めるようになるからね」
晃平はそう言ってくれたけど、元には戻らない。俺が大きな虫歯にしたから、こんなになってしまったんだ。
治すのは辛いと思っていた。でも、こんなふうになるまで治さないほうが辛いと今なら言える。それはきっと、喪失感が強かったことだけが理由じゃない。晃平と一緒なら治すのが以前ほど辛くないからだ。
「その手前の歯も見えるかな」
晃平が鏡を少し動かす。白い仮蓋がされている歯の、すぐ手前。その歯には茶色っぽい小さな穴が数ヶ所空いていた。
「ここは虫歯になってる」
一番奥の歯は神経を取ったのに、今も左下の歯に水が沁みる。だから、もしかして、とは思っていた。
きっと歯磨きの途中で痛くないか訊かれたのも虫歯だったからだ。
「でも、そこまで深くなさそうだよ。治すのも痛くないと思う」
晃平はそう言ってさらに鏡を手前に動かした。
「この歯はまだ治療は必要ないけど、ちょっと危ないかも。白くなってる所があるのはわかる?」
「うん」
「そこが虫歯になりかけてる所。まだ自力で治せるから、気をつけていこうね。……下はこんな感じかな」
晃平の持つ鏡は一気に右下まで移動した。右下の奥歯2本は昔治療していて、1本ずつ白い詰め物と銀色の詰め物が入っている。
「この辺りも特に問題はなさそう」
うがいをするか尋ねられたけど断る。晃平が鏡を上の歯に向けた。
「上はね、左と右1ヶ所ずつなんだけど……左はここ。見えるかな」
左上の奥から2番目と3番目の歯だ。間から虫歯になって銀色の詰め物が入っている。ここが?と不思議に思って晃平を見上げる。
「見た目ではわかりにくいけど、詰め物の下が虫歯になってるみたい」
「そう……なんだ……」
目を凝らしてみても俺にはよくわからなかった。
「沁みたりはしなかった?」
鏡を口の外に出し、晃平が尋ねる。
「下は沁みると思ってたけど、上は気づかなかった」
「実は、上と下の痛みを逆に感じることって結構あるみたいでね。もしかしたら、ここもそうだったのかも」
「じゃあ、上のほうがひどいの?」
「ひどいというか、上のほうは1回治療してある歯だから深い位置から虫歯になってるのね」
「ここと一緒ってこと?」
左下の歯に頬の上から手を当てる。ここも昔治療した歯だ。銀歯の下で虫歯になっていて、深くて、根っこまで達していて。また同じ治療をするのかと思うと恐怖心が膨れ上がった。
「一晴、落ち着いて」
涙が溜まり始めた俺の目をじっと見て晃平は穏やかに言った。
「俺もそれが心配でレントゲンを撮ったんだけど、大丈夫。根っこまでは行ってないみたいだよ」
「絶対?」
「……どうしても、最終的な判断は詰め物を取って診てからになるけど……可能性はすごく低いと思う」
「わかった」
「怖い思いさせてごめんね」
目頭に溜まっていた涙を晃平がガーゼで拭いてくれる。
「晃平は悪くないよ。……もう大丈夫」
「最後の所、一緒に確認できそう? 次はすごく小さいやつなんだけど」
「うん」
「じゃあ右側のここ、見てくれる? 奥から2番目の歯」
晃平が鏡に映した歯に目を向けると、溝の一部が黒くなっている。上の歯だから全然気づいていなかった。
でも、黒くなっているけどあまり深くないと晃平が説明してくれた。治療は痛くないし、1回で終わるそうだ。
「頑張ったね、全部一緒に確認できたね」
晃平が俺の持っている手鏡を取る。うがいしてね、と診療台が起こされた。
左下、左上、右上。口を濯ぎながら虫歯に沁みないか意識してしまったけど、ぬるい水はどこにも沁みない。検診も本当に見るだけだったから痛みもなかった。昔行った歯医者では検診が終わる頃には既にぼろぼろになっていたけど、今日はもう少し頑張れそうだ。
うがいをして紙コップを置くと、晃平が椅子を動かして俺のすぐ横に来た。手には検診の結果を入力したタブレットを持っている。
「今日は左下の消毒をして、右上の小さな虫歯を治そうと思うんだけど、いいかな?」
「うん。できると思う」
「ありがと。それと次回からの計画なんだけど」
タブレットと俺の顔を交互に見ながら晃平が話す。左下2本の治療を済ませてから、最後に左上を治療しようという提案。もちろん反対する理由はないので、そうしてもらうことにした。