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 浅賀は口を濯ぎ、西矢は手を洗って、二人は寝室へと戻ってきた。
 西矢の手にはケース入りの爪楊枝。途中で「爪楊枝はありますか」と西矢に訊かれ、浅賀がキッチンから調達したものだ。
 最初はミラーと探針はあるかという質問だった。探せばあるだろうが、自宅で使うことがないのですぐ取り出せる場所にはない。そう答えると、次はフロスはあるかと尋ねられた。だが、これも使う習慣のない浅賀の家には常備されていない。それに、たとえあったとしても歯間に挟まっているものを取るわけではないのだからフロスの出番はないのだが、「ない」とも「要らない」とも言えなかった浅賀は一旦探すふりをしてから、「ちょうど切らしてた」と嘘をついた。この状況でまだ見栄を張ろうとするのかと自分でも馬鹿らしくなるやら情けないやらだった。
 
「どうしましょうか。……ベッドに横になっていただけますか? 枕は外しましょう。それで、顔を少しこっちに向けて」
 
 浅賀はベッドの端のほうに仰向けになり、西矢は浅賀のすぐ左側で床に膝立ちをする。
 
「あ、それくらいで大丈夫です」
 
 浅賀はすっかり萎縮しきった様子で西矢を見上げた。
 他のどんな場所よりもくつろげるはずの自宅の寝室が、知らない歯科医院の診療室に見えてくる。
 
「思ったより暗いかも……。ペンライトとかありますか?」
「小さめの懐中電灯みたいなのでよければ、そこの中にある」
 
 浅賀が引き出し付きのサイドテーブルを指差す。開けていいですか、と律儀に尋ねてから西矢が引き出しを開け、直径2cmくらいの筒状のライトを取り出した。スイッチを入れると、大きさのわりに明るい白色の光が点く。
 
「これお借りしますね」
「ああ」
「あの、これも使っていいですか」
 
 引き出しを開けて見つけたらしいウェットティッシュを西矢が取り出した。
 
「なんでも使ってくれ」
 
 アルコール除菌と大きく書かれた10枚入りのパック。だいぶ前に買ったのでもう乾燥しているのではないかと浅賀は不安だったが、指の一本一本まで丁寧に拭いている西矢の様子を見るにそれは杞憂だったらしい。
 
「じゃあ浅賀先生、失礼します」
 
 少し湿った西矢の手が浅賀の顎をそっと掴んで動かす。
 
「お口開けてください」
 
 いよいよか。前に診せたことがあるとはいえもう2年前。あの頃より状態はひどいし、今の西矢は、数時間後には自分の歯を治療する歯医者さんだ。そう思うとひどく緊張してくる。それに今からされることだって痛いのが確定だと思うと……明日治療する前でもよかったんじゃないか。後悔したがもう遅い。
 全身に力が入りながらも浅賀は小さく口を開けた。
 
「もう少し開けられますか? 力抜いて……リラックスしてくださいね」
 
 できるか、と浅賀は言いたかった。
 ライトで照らしながら、西矢が前から覗き込むような形で口の中を見てくる。2年前に検診を受けたときと角度が違うせいで威圧感と恥ずかしさが増しているように思えた。
 
「痛むの、左上の6番でしょうか。咬合面になにか詰まってるみたいです」
 
 しばらくそこをじっと観察していた西矢だが、「これ持っていただけますか」とライトを浅賀の右手に握らせ、角度を調整した。
 
「すみません、自分で持つと不安定で。この位置で持ってていただけると」
「……こうか?」
「はい。ありがとうございます。じゃあもう一度大きく開けて。ちょっと取ってみますね」
 
 空いた片手で浅賀の顔を固定し、西矢が爪楊枝を左上6番に向ける。浅賀がぎゅっと目を閉じた瞬間、左上に抉られるような痛みを感じた。
 
「んうっ!」
「浅賀先生、我慢して」
「かはっ、あっ……ああぁ……っ」
 
 食片は齲窩の奥まで押し込まれており、容易には掻き出せないようだった。何度も爪楊枝がそこを刺激するたびに浅賀の体は跳ね、ライトの光がぶれる。しかしそれに動じた様子もなく、西矢は浅賀の顔をしっかり押さえたまま手を動かし続けた。
 
「……取れました」
 
 ようやく西矢の手が浅賀の口元を離れていく。
 ぼやけた浅賀の視界に西矢がウェットティッシュで爪楊枝と食片を包むのが映った。
 
「浅賀先生、終わりましたよ」
 
 放心したように横たわったままの浅賀を西矢が再び見下ろす。西矢はウェットティッシュで自分の手を拭くと、浅賀の汗ばんだ手からするりとライトを抜き取った。
 
「あ……悪い」
 
 我に返った浅賀は重い体を起こす。全身にも汗をかいており、パジャマがべっとりと体に張り付いていた。
 そんな浅賀を西矢は丸めたウェットティッシュを持ったままじっと見ている。浅賀は慌ててゴミ箱にそれを捨てさせた。
 
「……変なことをさせてすまなかった」
 
 消え入りそうな声で言うと、西矢は浅賀の目をまっすぐに見てきた。
 
「全然変なことじゃないです」
「でも」
 
 西矢の言葉が本心かどうか浅賀には確かめるすべがない。
 
(本当は、どう思ったんだ)
 
 ようやく平静を取り戻してくると、先ほどのことがやけに鮮明に思い出された。己でさえ直視できないでいる口の中を見せて、汚いことをさせて、痛みに耐えきれず後輩の前であられもない姿を見せた自分。
 2年前に検診されたときから、西矢に軽蔑されているとずっと思っていた。しかし最近それが誤解だったようだと気づき、治療を頼んだわけだが。
 誤解だった証拠などどこにある? 西矢の感情表現が乏しいのをいいことに自分に都合良く解釈していただけではないのか。たとえ今まで軽蔑されていなかったとしても、この先もそうである保証は?
 唇を震わせるだけで言葉が続かない浅賀。しかし、そんな様子を見て西矢はなにか勘違いをしたらしかった。
 
「すみません。俺がもっと上手にできれば」
「……いや、西矢は悪くないよ」
「でも痛かったですよね」
 
 あんなに歯に麻酔なしで触れば、誰がどうしたところで痛いに決まっているのだ。
 しかし西矢の声は次第に暗くなっていき、とうとう表情にも翳りが見え始める。自分が原因で人に嫌な顔をさせたくない浅賀が、そんな西矢に対して黙っていることなどできなかった。
 
「もう大丈夫だ。おかげで楽になった気がするよ」
 
 正直なところ痛みの余韻が強すぎて、状態が改善したのか浅賀にはまだ分からなかった。だが、これ以上後輩を困らせるような言動をしたくない。それに、「まだ痛い」などと口を滑らせればもう一度見せてほしいと言われかねない。
 
「そうですか……!」
 
 西矢の目が一瞬ぱっと輝いたように見えたのはまだ軽蔑されていない証拠か、それともそう信じたい自分の思い込みか。浅賀にはもう判断がつかなかった。