なぜ歯医者に行こうと決心したときに限って歯医者は休みなんだろうか。
浅賀は自室のソファに座り読み始めたばかりの本をぱたりと閉じた。この連休に読むと決めていた歯学書。午前中早めに部屋の掃除を終わらせ、ようやく開くことができたというのに歯が痛くて集中できない。ちなみに鎮痛剤もしっかり飲んだ。これはさすがに歯医者にいかないとまずいのではとやっと浅賀も重い腰を上げかけたのだが、世間は盆休みの真っ只中、浅賀が受診しようと考えていた歯科医院も例に漏れず休診日となっていた。
(……休診日じゃ、仕方がない)
いくらこの時期でも開いている医院は一つや二つあるだろうし当番医だってあるのだが、それを探そうという考えは浅賀の頭にはなかった。
まだ昼前だ、本はまたにしてゆっくり過ごしてもいいかもしれない。たまにはネットで映画でも、と考えかけた浅賀だったが、非常に腹が減っていることに気づいた。最近まともな食事を摂っていない気がする。ほんの1、2週間前までは固形物もいくらか口にできていたが最近は噛むのが辛い。食欲もなくなってくれればよかったのだが、相変わらず摂食中枢はしっかり仕事をしてくれるのでたちが悪い。頭も回らないし気力もなくなっていくようだった。
また今日も買い溜めしていたゼリーでも食べるか。浅賀はキッチンへ立って冷蔵庫を開けた。
真っ先に目に飛び込んできたのは鮮やかな赤色、浅賀がまず買うことのない、トマトのゼリー。後輩の西矢がくれたものだ。あまり美味しそうだとは思えなかったのと西矢にもらったという事実を受け入れかねていたのとで冷蔵庫に入れたきりになっていたそれ。浅賀はようやくその一つを手に取ってみる。もらってしまったからにはずっと冷蔵庫で眠らせておくのも勿体ない。ただ問題は味だが。
デザートトマト、りんご果汁使用……そんな言葉が並ぶパッケージをしげしげと眺めた後、浅賀はゼリーとスプーンを手にソファへ戻って行った。
冷たいゼリーを少し机の上で放置してからフタを開け、ひとさじ掬って口に入れる。なるべく歯に触れないように舌で押し潰すように味わうと、思ったよりも甘い。多少のクセはあるものの、案外浅賀の口に合うものだった。
西矢、か。まさか彼からもらい物をするとは数日前の浅賀は思ってもみなかった。
***
先週の土曜日。週1で応援に行っているクリニックに出勤した浅賀は、休憩時間、運悪く西矢と並んで座ることになってしまった。やたらと近づいてくる西矢を避けて昼食はなるべく外で食べるようにしたり、他のスタッフと話をしたりと浅賀なりにいろいろ策を講じていたのにこの日は失敗したのだ。
だいぶ歯が痛み出していたので外食する気になれず、通勤中にコンビニで買ったゼリー飲料を少しずつ飲んでいた。他の歯科医たちはまだ午前の診療が終わっていないようで休憩室には浅賀一人だけ。ちょうどそんなタイミングで部屋に入ってきたのが、西矢だった。
「お疲れ様です、浅賀先生」
「あ、ああ、お疲れ」
「隣、いいですか?」
「……え?」
思わず、素でそんな声が漏れた。広い休憩室の真ん中に置かれた大きなテーブル。そのテーブルを囲むように椅子はいくつもあるし今ならどこでも空いているというのに、なぜわざわざ隣に来る?
だが、浅賀というのは大変人目を気にする男だった。頼まれたことは断れないし、なるべく他人に嫌な顔をさせたくない。それは優しさというよりは人に悪く思われたくないからそうしていると言ったほうが正しい。
今もそうだ。西矢の顔、いつも同じ表情にしか見えていなかった顔が心なしか曇ったような気がした浅賀はつい、「いいよ」と自分から隣の椅子を引くことまでしていた。
「あ、ありがとうございます」
そう言って腰掛けた西矢はまた、いつもの無表情に戻っていた。
よく考えてみろ、隣に座られるのを嫌がったくらいであの西矢がショックを受けるわけないじゃないか。なんせこいつは自分のことを軽蔑しているのに。己の行動をひどく後悔した浅賀はなるべく西矢のほうを見ないようにしてゼリー飲料を咥えた。
「浅賀先生、もしかして昼食それだけですか?」
……来た。
気まずい。非常に気まずい。西矢が来た時点でこのゼリー飲料を隠すべきだった。自分の歯の状態を知っている西矢の目と鼻の先でいかにも歯が痛いですよと言わんばかりの昼食を摂っているという事実に耐えられない。どう答えればいい? 浅賀は必死で頭を回転させるがどう答えるも何も昼食はこれだけだ、違いない。
「……ちょっと体調が悪くて。これだけだよ」
とっさに口から出たのは全く機転の利かない回答で、もっと他に言いようがあったのではと浅賀は頭を抱えたくなったが、答えてしまってなお何も思いつかなかった。
「体調……あの、歯が痛かったり、しますか?」
「……ん?」
妙に高い声が出てしまった気がするがそれを気にしている場合ではない。
西矢が自分の歯のことをどう思っているか、それを浅賀は重々承知しているつもりだ。だが西矢が浅賀の歯について尋ねてきたことは2年前の検診以来一度もなかった。それが、とうとう訊かれてしまった。まさかわざわざその話をするために俺の隣に……? 嫌な動悸がして途端にゼリーが飲み込みにくくなる。
「す、すみません。いきなり尋ねるようなことじゃないですよね」
ずっと黙っている浅賀を勘違いしたように西矢が謝る。そういう言い方とっても良くない、と浅賀は思う。「違いましたか?」ではなく、「いきなり尋ねるようなことじゃないですよね」。こちらは体調が悪いとしか言っていないのに西矢は体調が悪いイコール歯が痛いと考えて疑っていないのがその言葉に表れているし、浅賀が口の中の状態をとても気にしているような言い方だ。実際その通りだが。
あまりに屈辱的だったので浅賀はつい余裕のありそうな口調で答えてしまった。
「別にいいよ。そうだね、ちょっと最近痛むような気がして」
墓穴もいいところだ。虫歯と同じくらい大穴を掘ってしまった自覚はあった。冷や汗と動悸が止まらないのを必死に隠している浅賀を西矢はじっと見ている。なんだ、何を言うつもりなんだ。いよいよ治療しろって話か?
「……食事、いつもそれくらいなんですか?」
「え? あ、いや、いつもはもう少し食べてるよ」
予想していたのと違う西矢の言葉に、浅賀はしどろもどろになりながらも答える。
「それなら、いいですけど。あんまり食べられないのは心配なので」
本当に心配してるんだろうか。西矢の表情と言葉が一致しない。この期に及んで、浅賀は西矢が何を思っているのか全く分からなかった。
「……あの、浅賀先生」
「は、はい」
おもむろに背筋をまっすぐ伸ばした西矢に見つめられ、浅賀も思わず姿勢を正して返事をする。
「お節介かもしれませんけど、俺は浅賀先生が歯痛そうなので心配してます」
いやだから心配ならそういう顔をしてくれ。そう思ったが西矢の姿勢や目線からどうやら本気らしいということがようやく浅賀にも分かり始めた。
おかしい。西矢は自分を軽蔑していたはずだが。今まで勝手に抱いていた西矢像が崩れていくような気がして、混乱しつつ浅賀は西矢の次の言葉を待った。
「食事を食べられないと元気も出ませんし、酷くなると治療も大変ですし、抜歯ってことにもなりかねません」
脅しなのか、これは。そんなことは分かってる……浅賀は耳を塞ぎたい衝動を抑えて淡々と話す西矢の言葉に耳を傾ける。相槌を打ったり返事をしたりする余裕はない。ただ、顔色を悪くしながら浅賀は西矢に言われるがままになっていた。
「そうなってほしくないです。もっと自分のこと大事にしてください」
「あ、ああ……ありがとう?」
「浅賀先生、話を終わらせようとしないでください」
西矢がわずかに浅賀に体を近づけてきて、浅賀は顔を引き攣らせながらそんな西矢から少し距離を取る。腰掛けている椅子がぎしりと鳴った。
浅賀としては話を終わらせようとしたわけではなく、西矢の予想外の言葉にまともな返しができなかっただけだった。頭の中は混乱と恐怖でいっぱいだ。西矢という後輩のことが本当に分からない。分からないものは怖い。西矢は、一体自分のことをどう思っているんだ? 言葉を文字通り受け取るならばそれは悪い感情ではないはずだ。だが、今まで歯が痛そうにしている自分を意味ありげに見ていたのは? そもそも、自分のような口の中を見て純粋に心配だけで終わらせることができるのか?
頭の中にいくつも疑問符が浮かんでいる浅賀に、その答えを考える隙を与えまいとするように西矢は続けた。
「浅賀先生、治療しませんか?……その、俺でよければ診ますし、もし俺が頼りないなら浅賀先生が信頼できる先生でいいですし」
「治療?……西矢が?」
「あ、いえ! だから、それは俺じゃなくてもいいんです。とにかく治療受けてほしいんです」
そのときの西矢の表情。深刻、といえばいいのだろうか。やはり分かりやすく浅賀を心配しているような顔ではない。でも、なにか必死さを感じるような、そして裏表はないのだろうと信じたくなるような、そんな雰囲気があった。
「西矢、お待たせー……って、取り込み中?」
突如、休憩室にのんびりとした声が響いて、西矢の表情に見入っていた浅賀ははっと我に返った。
「須田くん、お疲れ様」
休憩室に入ってきた歯科医に、助かったとばかりに浅賀は声をかける。
須田はこれから外出するのか、私服姿だった。
「お疲れ様です、浅賀先生。あれ西矢、まだ着替えてないの」
「あ、ごめん。着替えてくる」
西矢も須田と一緒に出掛ける予定だったらしい。西矢が浅賀の隣から立ち上がり、休憩室を出て行く。浅賀はふう、と長めの息をつくとへなへなと背中を丸めた。
「浅賀先生また歯痛ですか?」
須田が笑いながら向かいの席に腰掛ける。
「放っとけ」
浅賀も笑いながらゼリーを咥える。
そう、これくらいでいいんだ。なんだって西矢はあんなに自分に構う? 深刻そうな顔をして「心配だ」なんて……。
それから、須田と西矢は二人で昼食を食べに出て行った。
そして、その日の診療時間後。帰り際に浅賀は西矢に呼び止められた。昼の話の続きじゃないだろうなと怯えていた浅賀の前に、西矢は小さなビニール袋を差し出した。
「これ、よかったら食べてください」
「……トマトのゼリー?」
中身を見て首を傾げた浅賀に、意外と美味しいんですよと、あまり美味しそうには見えない顔で西矢が言う。
「昼に出たとき、ちょうど見かけたので。少しでも体にいいかなと思って」
「……ありがとう」
本当に自分を気遣ってくれていると信じていいんだろうか。戸惑いを隠せない浅賀に、西矢は静かに言った。
「昼にお話ししたこと、考えてみてくださいね」
「……」
「それじゃ、失礼します」
一礼して、西矢が去って行く。
「治療受けてほしいんです」と、昼間に聞いた西矢の真剣な口調を浅賀は思い出した。
***
真っ赤なゼリーをスプーンで掬い、口に運ぶ。ちょうど良い甘さが浅賀の空腹の体に染みていった。
西矢が自分のことを心配していると言っていたあのときの感じ、何かに似ているとずっと引っかかっていたがあれだ、学生時代に告白してくれた子がああいう雰囲気だった。
唐突にそんな考えが浅賀の頭に浮かび、直後、何を考えているんだと自分の頭を殴りたくなった。とうとう歯の痛みで思考回路までおかしくなったらしい。
だが、少なくとも軽蔑や嫌悪といった類のものは感じなかった。絶対に良くは思われていないだろうと勝手に想像していたが、その考えは改めてもいいかもしれない。ただ治療するかどうかについては全く別問題だ。少なくとも西矢に診てもらうことはない。休みが明けてから、別の歯医者に行こう。そんな、何度も砕けてしまった決意をまた胸に抱いた浅賀だった。