4 - 1/4

「浅賀先生、全然酒進んでないじゃないですか」
「あ、俺はもう――」
「先生の送別会なんですよ? ほら、飲んで飲んで」

 隣に座った須田はだいぶ酔いが回っているらしい。まだ空になっていないコップになみなみとビールが注がれるのを見て浅賀は乾いた笑みを浮かべた。
 早く帰りたい。夏休みも終わり、応援に来ていた歯科医院での勤務も今日までとなっていた。同僚たちが浅賀のために開いてくれた送別会の誘いを断ることはできず来てみたものの、鎮痛剤を服用した後に酒を飲んだせいで気持ちが悪いし、さっき食べた料理が歯に詰まって嫌な圧迫感と痛みがある。キリのいいところで適当な理由をつけて帰るつもりでいたが、隣に座っている須田がこのような調子ではなかなか好機は巡ってこなかった。
 今日だけは隣は西矢がよかった。15人ほどが座る個室、浅賀が座る端とは反対側の端で周囲のスタッフたちと会話が弾んでいる様子の西矢にちらりと視線を向ける。こちらに気づくかと少し期待したが、彼は浅賀には目もくれなかった。
 
 あれきりだ。ゼリーをもらった日を最後に西矢とは挨拶程度の会話しか交わしていない。浅賀が西矢を避けていたせいもあるが、西矢のほうも距離を置いてきたのは明らかだった。あんなに自分に構ってきたのに突然どうしたのだと最初は不審に思ったが、考えてみれば簡単な話だ。今度こそ軽蔑されたのだろう。誠意を持って「治療してほしい」と伝えた相手がいくら経っても治療を始めない、その気配もないようでは無理もない。
 一応、と心の中で言い訳はした。一応行くつもりはあるんだ。でも行こうと思った日に限って歯科医院が休みだったり、他の日は時間がなかっただけで……。
 しかしこれでようやく西矢の視線から解放された。それを浅賀はずっと願ってきた、はずだった。それなのにどういうわけか気持ちは晴れなかった。
 この医院での勤務が終わるのを待たずに済んでよかったじゃないか。自分に何度も言い聞かせるのに、気づけば西矢を目で追っている。西矢が自分を見ていないかと心のどこかで期待している。もう一度あの真剣な表情で「治療してほしい」と言ってくれないかとすら思う。だが、とうとう西矢と目が合うことはなかった。
 きっと、よくあることなのだ。押した後に引くのはビジネスでも恋愛でもよく使われる手法だと聞く。まさか自分がその術中にはまるとは思っていなかったが――そもそも西矢は浅賀を振り向かせる意図でそうしているわけではないのだろうが――こんな気持ちになってしまうのは人間の性で仕方がない。浅賀はそう自分を納得させた。
 
 今日で終わりだ。申し訳ないが来年はたとえ頼まれても絶対にこの医院には来ない。西矢にはもう会うことはない、会わないようにする。そうすればこんなに心を乱されることもなくなるはずだ。この席さえ乗り切れば……それにしても気持ちが悪い。

「浅賀くん、大丈夫か? なんだか顔色が悪そうだが」
 
 向かいに座る院長に声をかけられ、渡りに舟とばかりに浅賀は口を開いた。

「すみません、実は体調が悪くて。……申し訳ないんですが早めに帰ってもいいでしょうか」
「ああ、もちろん。こちらこそ申し訳ない」
「いえ、とんでもないです。お世話になりました、院長」

 挨拶を済ませ、主役そっちのけで盛り上がっている様子のスタッフたちに浅賀の退席を知らせようとする院長を留め、浅賀はひっそりと店を出た。
 繁華街の細い通りを色とりどりのネオンが明るく照らしている。むわりと湿気のこもった、週末の賑やかな街。道行く人々の多さに浅賀は気が滅入りそうになってしまった。この中を駅まで歩く気力がない。自宅までは電車で3駅だが、タクシーで家まで帰ろうと浅賀は大通りに足を向けた。

「浅賀先生!」

 突然後ろから声が響いた。その声を聞いてなぜだろうか、助かった、と思ってしまったのはこの体調の悪さゆえなのか。

「待ってください、浅賀先生」

 ゆっくり振り向くと西矢がほとんど小走りで浅賀のもとに近づいて来るところだった。今日を乗り切ればもう会うことはないと、先ほど思ったばかりの人物。

「なんで黙って帰るんですか」

 浅賀の目の前まで来ると西矢は開口一番責めるようにそう言った。

「俺、ちゃんと挨拶したくて」
「わざわざよかったのに。でも世話になったよ、ありがとう西矢」

 話すとだめだ。胃の底から酸っぱいものが込み上げてきてごくりと唾を飲み下す。歯が痛い。痛みが頭まで響く。なんだか目が回る。

「そんな、俺のほうこそ……先生?」

 膝に手を置いて背中を曲げ、はあ、と苦しそうに息をついた浅賀の肩に西矢が触れる。

「すまん、ちょっと体調が悪くて……うぅ」
「浅賀先生!」

 ああ、西矢ってこんな声も出すのか。そう思ったのを最後に浅賀の記憶は途切れた。