「あの、西矢、本当にもう帰ってくれていいんだが」
「気にしないでください。せめて薬が効いてくるまではここにいます」
「でも電車とか」
「大丈夫です。終電までしばらくありますし、もしものときは歩きでも帰れます」
治療の約束をした後、へたり込んでしまった浅賀を西矢はベッドまで連れていき、鎮痛剤と水を運んできたり頬に冷却シートを貼ってくれたり、浅賀が断るのも聞かずそれはもう甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
パジャマに着替えるのは自分でしたものの着替え終わると横になるよう促され、薄手の毛布をかけられる。さすがに後輩の前で自分だけ寝ているこの状況を浅賀は許せず冒頭のやりとりに至ったのだが、説得は失敗に終わった。
西矢がベッド脇、籐のラグマットに腰を下ろす。
(薬は早くてどれくらいで効くんだったか……)
なるべく早く、しかし怪しまれない程度の時間が経ったあたりで、薬が効いてきたと言おう。そうすれば西矢は帰るはずだ。そんな策は頭の中にあるのに、最近は薬が効かないか、効くまでに非常に時間がかかる浅賀はタイミングを計りかねていた。
「浅賀先生、大丈夫ですか」
浅賀が苦しげに息を吐くと、西矢が腰を浮かせる。
「かなり痛みますか」
「……いや、大丈夫だよ。じきに薬が効いてくるだろ」
「そうですか……?」
正直なところ、効く予感はしなかった。
恐らく一番ひどい状態だと思われる左上。そこが送別会のときからいつにも増して痛い。いつもの痛みに加えてなにか詰まっているような圧迫感がある。いや、「ような」ではなくきっと食片が詰まっているのだろう。
取れば少しは痛みが治まるだろうか。そういえば歯磨きもしていない。その状態を明日西矢に見られるわけにはいかないので、西矢が帰ったら詰まっているものを取って歯磨きもしよう。見るのも取るのも怖いが、西矢に醜いものを晒すよりはましだ。やはり早く帰ってもらわねば。
そう決意したそばからまた痛みが襲ってきて、眉間に皺を寄せた時。浅賀の顔の上に影が射した。
「あの、浅賀先生。今ごろになって申し訳ないんですが」
ベッドの縁に手をつき、西矢が浅賀の顔を見下ろしている。
「歯磨き、してないですよね……?」
体勢もあいまって、西矢のことが歯医者さんにしか見えなくなった瞬間だった。この後の最悪の展開が瞬時に浅賀の脳内を駆け巡る。
「すみません、俺うっかりしてて。口の中を綺麗にしたら痛みが軽くなるかもしれません」
「…………そう、か?」
「待っててください。歯ブラシ取ってきます」
「ま、待て!」
ベッドを離れようとした西矢の手を浅賀が掴む。強い力で引かれ、西矢が「ぅわ」と声をあげるも浅賀の耳には届いていなかった。
「自分で、行く。歯磨きしてくるから」
浅賀は西矢の手を離し、起き上がろうとする。しかし疲れきった体は西矢によって容易に動きを阻まれた。
「浅賀先生は休んでてください。すぐ戻りますから」
言うが早いか西矢は寝室を出ていった。
もう、戻ってこなくていい。歯ブラシを取ってきてどうするつもりだ。自分が歯磨きをするところを横で見ているつもりか。それともまさか、西矢が磨くつもりか。どちらにせよ何が何でも回避したい。
しかしどこにも逃げ場などなく、浅賀がベッドの上で上半身を起こし呆然としていると、西矢はすぐに戻ってきた。
西矢の右手に握られたブルーの歯ブラシはたまに使い忘れるとはいえ見慣れた自分のものなのに、まるで探針かなにかのように恐ろしく感じる。
しかも、その開いた毛先。そこに目が留まった途端、恐ろしいという感情に羞恥心が混ざった。前回交換したのはいつだったか思い出せない。こんなものを西矢に見られてしまったなんて。
「これ――」
「ありがとう、貸してくれ」
「歯ブラシ交換したほうがいいですよ」だとか「俺が磨きます」だとか言おうとしたのだ、きっと。
西矢の言葉を遮り、ひったくるように歯ブラシを取りあげる。弾みに西矢の手の平を引っかいたような気がして慌てて彼の表情を確認するもいつもと変わらず、何を考えているのかよく分からなかった。
怖い。
ほんの数十分前には彼に治療してもらえることに安堵したはずなのに、歯科医だと意識してしまったせいだろうか、今まで以上に彼のことが怖いかもしれない。しっかり磨かないと。そうしないと怒られるかもしれない。痛いことをされるかもしれない。
浅賀は強迫観念に駆られるように歯ブラシを口の中に突っ込んだ。
まずはあまり痛くない右下から。西矢に注意されないよう、いつもなら手早く済ませることが多い箇所もなるべく時間をかけて磨くが、これまた程度がよく分からない。
(理想は1ヶ所10秒くらいだったか? いや、1ヶ所10回? それ以上?)
横から感じる視線のせいで数を数える余裕もなく、とにかく浅賀の体感でいつもの3倍くらいは時間をかけているだろう、という程度で歯磨きを続けていく。
左下と右上は毛先が当たると明らかに痛みを感じる場所があったが、なんとか顔には出さず磨き終えた。
そして問題の左上だが。
「……っ!」
詰まっているものを取ろうと、思い切って歯ブラシを動かした瞬間、体の末端まで電気が走ったような痛みに襲われた。なにかが取れた感触はない。
心臓が縮み上がる感覚。汗が吹き出す。でも、取らないと。取らないと、西矢が……。
もう一度。まだピリピリと痺れる右手を動かした。
「んはっ……!」
「浅賀先生」
歯ブラシを口の外に出し、頬を押さえた浅賀の手に西矢の手が重なる。
「もしかしてそこ、なにか挟まってますか?」
「は……」
正確には挟まっているのではなく詰まっているのだが、浅賀に訂正する勇気はなかった。
西矢がとっさに「挟まっている」という言葉を使ったのはとても自然だと思った。食片が取れないという事態が生じるのはたいてい歯間なのだから。歯に穴が空いたことのない人間は「詰まっている」という発想がすぐには出てこないのだと思い知らされた気がした。
「あ、違ったらいいんです。歯ブラシの動かし方見て、もしかしたらって思っただけで」
「わ……分からない」
「ちょっと見てもいいですか?」
質問の体を取りながら浅賀にとってそれはほぼ命令に聞こえた。ゆっくりと横の西矢に顔を向ける。静かな目に見据えられて、いやだ、と言いたいのに口が動かない。そしてこの痛む歯に対して自分ではこれ以上なにもできないことを浅賀も悟っていた。
「……く、くち」
「はい」
「口、ゆすいできてもいいか。見てもらう前に」
「もちろんです」
立てますか、と西矢に背中を支えられる。それすら断ることができず、浅賀は西矢に支えられながら洗面所に向かった。