左下が腫れぼったくなってきて、ズキズキとした痛みはさっきより軽くなった気がする。いよいよ歯を削られるのかと思って春田先生のほうを確認すると先生が持っていたのは歯を削る機械じゃなくて歯ブラシだった。
「小宮山くんあのね、ちょっと先に歯磨きさせて。左下だけでいいから」
言われている意味がわかった瞬間、かっと顔が熱くなってしまった。また歯が疼いた気がする。
「お、俺、帰ったらちゃんと磨くつもりで……」
痛かったせいで、昼食を食べたあとその部分はほとんど磨けていない。たぶんあのまま家に帰っても磨けなかっただろうけど、そんなこと言えるはずがなかった。
「責めてるわけじゃないよ。このまま治療して菌が入ったらいけないし、綺麗にしたほうが痛みも軽くなるから、ね」
嘘だ……。いくら歯医者さんでもこの人から歯磨きされるなんて考えられないし、あんなところを磨いたら痛いに決まってる。
「大きく開けて」
「いや……ぁ」
「大丈夫。歯磨きするだけだよ」
それが嫌なのに。春田先生の指がするりと口の中に入り込んできて口を開けるしかなくなる。すぐに歯ブラシが差し込まれて歯の側面に当てられた。そこはまだいい、けど。表と裏と磨かれて一番奥の歯の溝に歯ブラシが触れると思わず体に力が入る。
「この歯も詰め物の隙間から虫歯になってるみたいだね……」
歯ブラシを動かしながら春田先生が呟いた。言われてみれば少し沁みるような気がする。けど、まだ我慢できる。問題は次。春田先生が少し眉を顰めた。
「まっ……」
「あーん、だよ。頑張って磨こうね」
「ん、あ、あぁ」
歯に詰まっているものを掻き出すように歯ブラシが動かされ、鋭い痛みが何度も襲ってくる。
「ごめんね。麻酔効いてないな……もう終わるから」
「あぁっ……」
俺が痛がっても全く手を緩めずに歯を磨き終えると、うがいしてね、と診察台が起こされた。
コップを持つ手が震える。歯磨きだけであの痛みって、これからどうなるんだろう。
「小宮山くん」
後ろから突然呼ばれて、引き攣った声が漏れた。春田先生が眉尻を下げる。
「驚かせてごめん。うがいできた?」
沁みそうで本当は嫌だったけどそう言われた手前しないわけにもいかず、なにも答えずに水を含んでなるべくゆっくりと口の中で転がす。
「……ん、ふっ」
思ったとおり沁みて、すぐに水を吐き出してしまった。口元にもたくさん水が零れたので慌てて脇に置いてあったティッシュに手を伸ばし、拭き取る。
「歯磨き、痛かった……よね」
「あ、あんなものじゃないの」
「うーん、僕は思った以上だったっていうか。麻酔足そう」
思った以上ってなに? 俺が痛がりすぎみたいで恥ずかしくなっていると、すぐに診察台が倒され、春田先生が注射器を手に取る。さっきとは別のところ、歯と歯茎の境目あたりに針が刺された。しばらくすると、さっきよりも痺れてきたのがわかる。
「これでちょっと削ってみるね。あーんして」
そろそろと口を開けると久しぶりに聞く甲高い音が鳴り始めた。というか春田先生、いつも仕事ではこんな話し方なわけ? 子ども扱いされているみたいで気に食わない。あ、子ども扱いされないようにもっと口開かないと。
「麻酔足したから大丈夫だよ。もう少し開けようね」
開けてるだろ……! 春田先生を睨んでみたけど俺の視線に気づいた様子はなく、左側から近づいてきた水を吸う機械で口の中を広げられた。
「ん」
「痛い?」
歯が削られ始めてつい声が漏れてしまったけど、痛くない。ちょっと苦しいけど、これくらいなら大丈夫かもしれない。目を閉じて徐々に体の力を抜いていった。