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「へえ、先生裏のマンションに住んでるんですか」
 とある日の診療時間の最後。定期検診にやってきた会社帰りのサラリーマンと、住んでいる場所の話題になった。
「いいですねえ、近いの。俺なんか今から電車で2時間ですよ」
「2時間かぁ。あれ、もしかして同郷だったりしますか?」
 県の端も端に位置する市の名前を出すと、「あ、そこですね」と彼は驚いたように声をあげた。
「てことは小宮山社長とも同じってことじゃないですか」
「小宮山社長?」
「小宮山産業って聞いたことありません? 県内で飲食店を多数展開してるんですが」
 そう言って彼が挙げたファミレスや回転寿司屋などの名前はどれも聞き覚えのあるものばかりで、あちこちで店舗を見かける。あれ全部系列店だったのか。小宮山産業……小宮山?
「僕の住んでるマンションも小宮山ってついてますけど……」
「あっ、はい。あそこも小宮山家の持ち物らしいですよ。なんか噂では社長のお孫さんが住んでるとか」
「そうなんですか!?」
 社長のお孫さんというのはすなわち小宮山くんのことだろう。お坊ちゃんだったのか。あの言動は意外な気持ちが半分、でもあの佇まいには納得がいく面も半分、という感じだ。正直小宮山組(そんなのがあるのかは知らないけど)の若頭と言われたほうが納得はいく気もする。
「社長の息子さん……お孫さんのお父さんですね。その人がまあ結構遊び人というか自由な人らしくて、まだ社長が現役でされてるんですよ。お孫さんは今は別の企業にいますけど、ゆくゆくは社長の跡を継ぐんじゃないですかね」
「詳しいですね」
「自分もいちおうグループ企業にいるんで」
 その患者さんは電車の時間があると言ってそれからすぐに帰って行った。僕も他のスタッフと一緒に片付けや事務処理を済ませ、21時過ぎに家路に着く。
 小宮山くん、そんな生い立ちだったとは。ど田舎の普通の家庭で育った僕には想像しようもないけれど、なんだか苦労も多そうだなと考えながらマンションに帰る。
 ポストを確認してから、自分の部屋がある2階への階段を上りきった時だった。薄暗い照明の下、壁に手をついてしゃがみこんでいる人影に気づいた。
「だ、大丈夫ですか!?」
 慌てて駆け寄り、肩に触れる。
「だいじょうぶ……」
「……小宮山くん?」
 いつもよりだいぶ弱々しいものの聞き覚えのある声に顔を覗き込むと、小宮山くんは左頬を押さえて辛そうに呼吸をしていた。垂れた前髪の隙間から見える目は固く閉じられている。時々、こういう感じの患者さんが来院することがある。たいてい急患だ。これって……。
「もしかして、歯が痛い?」
「痛くない」
 肩に載った僕の手を跳ねのけ、小宮山くんがふらふらと立ち上がる。そのまままた壁に手をつきながら階段を上り出そうとする小宮山くんのコートを引っ張り、慌てて引き止めた。
「なにすんの」
「ごめん。けど、そんな状態で階段上るの危ないよ。歯じゃないにしても、少し休んでいくとか」
「いいから。ちょっと……頭、痛いだけ」
「頭がそんなに痛いならなおさら危ないって!」
 十中八九、歯だとは思うけどもし本当に歩けないほど頭が痛いならすぐ病院に連れていかないと。僕は小宮山くんの前に立ち塞がった。
「大丈夫だって。春田先生に関係ないだろ……!」
 小宮山くんが片手は頬に当てたまま、もう片方の手で僕を押しのけようとするけれど、その手に力はない。
「関係あるよ。大家さんいなくなったら僕は住むとこなくなるし」
「なにそれ……どうせ、大家の代わりなんていくらでも」
「でも小宮山くんの代わりはいないでしょ。ね、本当のこと言って? 頭? もしそうで、このまま帰して小宮山くんになにかあったら僕は一生後悔するよ」
「……」
 小宮山くんが気まずそうに頬から手を離す。でも、すぐに顔を歪めるとまた指先で頬に触れた。
「ちょっと、ごめんね」
 そっと小宮山くんの左頬に触れてみると、小宮山くんが顔を顰めた。比較のために右頬にも触れてみると、左は少し熱を持っている気もする。左下の奥歯に異常があるのはほぼ間違いない。このまえ部屋を訪ねたときに元気がなかったのも、チョコを受け取らなかったのも歯が痛かったからだったのかな。
「……春田先生」
 僕の手が引き剥がされる。それからしばらくの沈黙の後に、小宮山くんは意を決したように言った。
「歯が、痛い」
 また自分の手を頬に当てて、小宮山くんが泣きそうな顔をする。薄暗い照明に照らされて、目は既に潤んでいるのがわかった。
「これ、治せる……?」
 このまえ帰り際に呼び止められたのを思い出す。もしかして、あのときも本当は助けを求めたかったんだろうか。
「治せるかはなんとも言えないけど、痛みをとることはできるよ」
「薬で、とか? それとも……削ったり、する?」
「うん。診てみないとわからないけど、虫歯なら早く治療してしまったほうがいいかな」
 小宮山くんが俯いた。この様子、そしてこうなるまで受診できなかったことを考えると、歯医者が苦手なのかもしれない。強気な彼の意外な一面を見た気がする。
「小宮山くん、とりあえず診てみようか。歯医者まで行ける?」
「春田先生のところ?」
「それでもいいし、僕が嫌なら夜間救急まで送っていくよ」
 そう言うと小宮山くんは首を横に振った。
「春田先生のところでいい」
 単に近いところがいいだけなのかもしれないけど、拒否されなかったのは素直に嬉しい。
「よし! じゃあ行こっか。あ、肩掴まって」
「……いい」
 そっぽを向かれたので、僕は諦めてゆっくり歩き出す。歩くと歯に響くのか、時折後ろから辛そうな呼吸が聞こえてきたけれど、小宮山くんはちゃんと歯科医院までついてきてくれた。