ようやく本条の手が口元から離れていった頃には服の下が汗でじっとりとしていた。いつの間にか握りしめていた手にも汗をかいている。
どうだったのだろうか、検診の結果は。本条を見上げると、「内田も見てみるか」と手鏡を差し出された。恐る恐る手鏡を構え、本条の持ったミラーが口の中に入っていくのを眺める。
「わかりにくいところだと思う。咬合面は綺麗なものだ」
鏡の中に映っているのは思っていたような惨状ではなかった。一見、虫歯はなさそうに見える咬合面。
「ただ、裏からだと、隣接面のここ……見えるか」
俺の口の中と手鏡を交互に確認しながら、本条がミラーの角度を調整する。映し出された6番には輪郭のぼやけた小さな茶色いシミのようなものがついており、中心あたりには明らかに穴が空いていた。
「触ってみた感じ、少し深い気がする」
たぶん本条に検診を頼んだときにはもうだいぶ進行していたのだろう。俺の見方も甘かったとは思うが、これだけ見にくいところだとやはりセルフチェックには限界があるのだなと思い知らされる。
「デンタルも撮ったほうがいいと思うが5番も怪しいし、あと……」
ミラーが下へと滑る。
「ここの7番も気になる」
「えっ」
「ここだ」
探針が近づいてきて、左下7番の咬合面がそっとなぞられた。言われてみればたしかにその部分だけ溝がうっすらと茶色く、広くなっているように見える。こんな所すぐに気がつくはずなのに、しばらく見ないうちにこんなことになってしまったのかと愕然とする。
「C1程度とは思うが治療したほうがいい。あと、少し脱灰している所もある」
嘘だろ、自分で見てた頃はそんなのもなかったはずなのに。信じられないでいる間に3ヶ所ほど白濁している部分を指摘され、ミラーと探針が抜かれた。診療台が起こされる。
「せっかく綺麗な歯をしてるんだから、今言った所は気をつけてくれ」
綺麗? 要治療の虫歯が3本もあるのに? 当てつけか? 不愉快になって口を開きかけたが、ふっと目を伏せた本条がまた泣きそうな顔に見えてすんでのところで思いとどまる。
「……左上はもったいなく感じるな」
もしかしたら本条は治療後のことを考えているのかもしれない。今まで治療経験はあれど2本ともCRで治っていたから、見た目には白い歯が並んでいた。でも、左上を治療してインレーを入れたらそうではなくなってしまう。
「言ってくれるなよ、そういうことを」
余計に残念な気持ちになるから。見た目も気になるが、それほど虫歯を進行させてしまった事実そのものが重くのしかかってくる。最近は甘いものを食べることも増えたし、歯磨きをしないまま寝落ちしたこともあった。あんな生活をしなければよかった。嘘なんかつかず本条にもっと早く診てもらえばよかった。今さらどうにもならないことを延々と考えてしまう。
「すまない」
重たい静寂の中、横からぽつりと声が響いた。
「いいよ。仕方ねえだろ。まあでも、早く治したほうがいいよな。本条、次はいつが空いてるんだ?」
努めて明るく問いかけてみたが、彼の表情は晴れなかった。
「そうだな。……予定を見てから連絡してもいいか」
「おう」
「なるべく早く連絡する」
その日はそれからレントゲンだけ撮って本条の勤務先をあとにした。本条の治療の記録が入った封筒も預かり、鞄の中に入っている。俺の治療は頼めたものの、これまで散々傷つけてきておいて、しかもあんな虫歯を指摘されたあとで本条の治療をやっぱり俺がするとまでは言えなかった。明日あたり花北の勤務先を訪ねて、本条のことはおとなしく任せるつもりだ。
自宅に戻り、花北に連絡をと携帯を取り出す。しかしよく考えてみれば名刺に書いてあった勤務先の番号しか知らない。明日の朝一にしようと携帯を机に置きかけた時、ちょうど本条からメッセージが届いた。
「今日はありがとう。治療、明後日はどうだ?」
ありがとうと言うべきなのはこっちなのだが、それはともかく明後日か。ちょうど俺の勤務先は休診日だし、本条のところもそうだったはずだ。
「明後日で頼む。何時にする?」
さすがの本条も今は携帯をそばに置いているらしい。すぐに「11時くらいでもいいか」と返ってくる。やりとりはテンポよく進み、明後日の11時、本条の勤務先で待ち合わせるという約束になった。
「俺こそ今日はありがとう。またよろしくな」
すぐに既読がつく。しかしなにも返ってくることはなく、それっきり携帯は静かになった。俺だったらよろしくと送り返すところだが、まあ返事が必要な内容でもないし、本条らしいのかもしれない。
携帯を充電器に繋ぎ、ソファの背もたれに寄りかかる。疲れと眠気がどっと押し寄せてきた。長い一日だった。でも、やっとやるべきことができたような気がする。今日からまた歯磨きも忘れないようにしないと。このまま眠りに入ってしまいたい気持ちを振り払い、洗面所へと向かった。