1週間後の土曜日。久しぶりの前勤務先は少し違って見えた。久しぶりとはいっても打ち合わせなどで立ち寄っているので、そう何ヶ月も間が空いたわけではない。ソファやマガジンラックのレイアウト、隅に置いてある観葉植物、空気清浄機、受付に置いてある歯を模したキャラクターのマスコット……それらは今日も変わっていなかった。スタッフたちは忙しそうに仕事をしつつ、俺の顔を認めると会釈をしたり挨拶をしたりしてくれた。
だが、いつもの「帰ってきた」という感じがしない。空気清浄機を置いても隠し切れない嗅ぎ慣れているはずの匂いが体にまとわりつく。腰をおろした白いソファはこんなに冷たくて硬かったのか。替えたほうがいいのではとすら思えてくる。でもいくら内田に鈍いと言われがちな俺でもわかる、こんなふうに感じるのは恐らく緊張しているせいだ。
この感じは学生時代、治療に通っていた頃に似ている気がした。あの頃もこうやって待合室の隅で小さくなって呼ばれるのを待っていた。歯科医になってからの治療は内田にしてもらった一連の治療だけだが、憂鬱ではあったもののあの頃ほどは緊張しなかったので、自分も成長したのかと思っていた。
(……内田だったから、なのか)
虫歯を全て治療し終えるまで、ちゃんとここに通えるだろうか。本数は覚えていないがたくさん虫歯はあった気がするし、1本は抜髄の可能性もある。花北さんを尊敬しているのは間違いない。腕も心配していない。それなのに、こんなに心細いとは思わなかった。
「本条」
突然名前を呼ばれて、無意識のうちに俯けていた顔を上げる。いつの間にか目の前には花北さんが立っていた。
「あ、すみません……お疲れ様です」
慌てて立ち上がり挨拶をすると、花北さんは垂れ気味の目を細めて柔らかな笑みを浮かべた。
「お疲れ様。三吉さんから本条が予約取ってきたって聞いてびっくりしたよ。直接連絡してくれたらいいのに、水臭いな」
「すみません。ご迷惑かと思って」
「迷惑なんて思わないよ。まあここじゃ落ち着かないし、話は中でしようか」
花北さんの後ろをついて歩いて行き、一番奥の診療室に入る。コートをハンガーにかけたあと診療台に腰掛けようとして、もしや準備かなにか手伝ったほうがいいだろうかと花北さんのほうを見ると「どうしたの」と笑われてしまった。
「座って。患者として来たんだろう」
「ですが、なにかできることがあればと思って……」
「することはないよ。今日はやけに気を遣うね」
今日は、か。いつもは人に迷惑をかけていることにすら気づかない、俺のそういうところに花北さんも気づいているのだと思う。これからは改善しなければ。
「どうしたの本条。またぼーっとして。座っていいよ」
すみませんと謝りながら診療台に腰掛ける。花北さんが俺の首の周りに手を回してエプロンをつけてくれた。
「さて、治療してほしいって? どこが気になるのかな」
「あちこち、あるんですが……今日は左上の4番と5番をしてもらえたら嬉しいです」
「あちこち? まあ、たしかに本条はここにいるときから溜めてるふうだったね」
やはり気づかれていた。しかし怒るでもなく平然と受け止めている様子の花北さんにひとまずはほっとする。
「4番と5番は隣接面?」
「そうです」
「じゃあ早速だけど、診てみようか。椅子倒すよ」
花北さんが言い終わるか終わらないかくらいのタイミングで背もたれが倒れ始める。俺は背もたれに寄りかかったまま体が倒れていくのがどうも苦手だ。全身に力を入れて、後ろに肘をつきながら背もたれより少し遅れて体を倒していく。
完全に仰向けになると頭上のライトがつき、花北さんがグローブをした手でライトを引き寄せる。あまりの眩しさに口を開ける前から口内を透かして見られているような感覚に陥り、口元を手で隠したくなってしまった。
「お口開けて」
ミラーが近づいてくる。花北さんのもう片方の手には探針。それを見て心拍数が上がるのを感じた。内田はたしか、最初はミラーしか持っていなかった気がする。「痛いことするときは言う」と言ってくれて、こまめに声をかけてくれた記憶もある。と、そこまで考えて罪悪感に苛まれた。
なぜ内田と比べるようなことをしているのだろう。花北さんだって優しいと評判だし、心配はないはずだ。
大丈夫だ、と心の中で呟き、口を開けた。
「一通り見ていくよ。右……」
右頬の内側にミラーが触れた瞬間、花北さんの言葉が止まった。ライトが眩しいので閉じようとしていた目を開き直す。
「……本条」
静かな声がしたほうを見上げると、花北さんは右上の歯にじっと視線を向けていた。眉を顰め、表情は険しい。そこは内田に治療してもらっているところだ。なにかあったのだろうか。
「これはどういうこと」
「どういうこと」
花北さんがなにをそこまで問題視しているのかわからず、まるで機械のように言われたことをそのまま繰り返してしまう。はあ、と深く長いため息が聞こえた。
「悪気なしか……まあいい、先に検診しよう」
無言でミラーが動かされていく。花北さんの機嫌を損ねたのかもしれない。虫歯が多いと思われたのだろうか。でも、花北さんは右上だけ見ていたはずだ。他になにか……と検診されている間考え続けたが、心当たりはなにもなかった。