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 体調の悪さに加えさらなる悩みの種も増え、どうにか一日の診療を終えたあと。携帯を確認すると、新着メッセージの通知が表示されていた。馬渕からだ。花北の来訪があったせいでメッセージを送ったことすらすっかり忘れており、少し申し訳ない気持ちになりながらアプリを開く。
「久しぶり! すぐ返せなくてごめん」
「元気?」
 歯科医院を出て駐車場に向かい、暗い車内で携帯の画面を見ながらどう返そうか迷う。社交辞令ですら元気とすぐに言える余裕がなかった。それに今から歯の治療を頼もうとしているのに元気は変じゃないか、なんて細かいことをあれこれと考えてしまう。
「まあまあ」
 結局そう返すと、すぐに既読がついたが、いつまで経っても返信がこない。どうしたんだあいつ。早いけど寝たのか?
 諦めて携帯を助手席に放り、俺は自宅に向かって車を走らせた。

 携帯から着信音が鳴ったのはタイミングの良いことに自宅マンションの駐車場に着いた時だった。メッセージの着信音ではない。電話だ。
 まさか勤務先か……? 気をつけたつもりだが今日の状態ではなにか間違いを犯していても不思議ではない。鳴り続ける音楽に急かされるようにして車を停め、携帯に手を伸ばす。そこに表示されていたのは馬渕の文字だった。
「お前かよ。びっくりさせんな」
 ほっとしてつい軽口を叩きながら電話に出ると、一瞬の間の後に電話の向こうから控えめな笑い声が聞こえた。
「なんだ、思ったより元気そうだな」
「思ったよりってなんだよ」
 今の状態のことなど馬渕は知らないはずなのに、まるで元気がないのを心配されていたような言い方だ。
「いや、だって内田があんな返事してくることあんまりないだろ? これ相当具合悪いんじゃないかって心配で電話しちゃったよ」
「そこまでじゃねえよ。でもありがとな」
「それならいいけど。なんか用事あった?」
「あー……まあ」
 つい濁してしまう。歯の治療を頼むのだと思うとすぐには言葉が続かなかった。車にいるからとりあえず家に入っていいかと断り、電話を繋いだまま、マンションの自分の部屋に向かった。
「……悪い。今、部屋に入った」
 部屋の照明をつけ、ソファにどさりと体を沈める。腕に触れたクッションを取ってなんとなく膝の上に置いた。そういえば、本条に検診を頼んだときもすごく緊張した。もうはるか昔のことみたいだ。
「どうしたの、内田」
「ああ、なんでもない」
 ずっと黙っている俺を心配するような声が聞こえてくる。クッションの端を指先でいじりながら、俺はようやく本題に入った。
「ちょっと馬渕に頼みがあって。検診してくれないか」
「検診? 歯の」
「そりゃそうだろ。……なんつーか、まあ、ちょっと違和感あるとこがあってさ。必要なら治療もしてほしい」
 もう明らかに痛いのに違和感とか、必要なら、とか。ここまで来て潔く認められないのが我ながら情けない。
「おー、いいよ」
 よかった。ひとまず頼むことはできた。安心しかけたのも束の間、続けて電話の向こうから聞こえてきたのはひどく戸惑った声色だった。
「でも俺でいいの」
「どういう意味だよ」
 もしかして遠方にいることを気にしているのだろうか。そう考え、問題ない旨を伝えたが彼はなおも戸惑ったように尋ねてきた。
「いや、そういうことじゃなくて。本条に診てもらわないの」
 危うく携帯が手から滑り落ちそうになる。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ」
「だってお前ら仲良かったし、それに内田、最近本条の治療してるんだろ」
「……え」
 なんで馬渕がそのことを知ってるんだ? 予想外の反応が続き、疲れた頭はパニックを起こしかけているがそんな状態でもわかることがあった。俺は本条の治療をしていることを誰にも話していない。となれば、誰から聞いたかなんて言うまでもない。
「本条から聞いたのか」
「うん」
 よりによって、なんで馬渕に。そんな俺の思いが通じたように馬渕が話し始める。
「誕生日に本条が連絡くれてさ、それからずっとやりとりしてて。ほら、あいつ返事来るまでに1週間くらいかかるから」
「ああ……」
 わかる。本条はそういうところがある。気まぐれですぐ返ってきたり、1週間かかったり。それも俺のことはどうでもいいと思っているのではと考えてしまう要因だったけれど、俺に対してだけじゃなかったのか。
「で、ゆるく連絡取ってたら最近内田に治療してもらってるって言って。なんか嬉しそうだったよ、本条」
「嬉しそうだった?」
 心臓が音を立て始める。聞いてはいけない秘密を聞くような気持ちだった。ついぞ直接訊けなかったこと、本条が俺の治療をどう思っていたのか。馬渕に嘘をつく理由はないからきっとこれは本心なのだ。
「内田に治療してもらえてよかったって」
 あいつが、そんなことを?
「……それだけか」
 よかった理由とか、もしくはよくないことも話しているのではとか、期待半分、不安半分で尋ねる。
「え? なんか内田は優しいとかなんとか、惚気みたいなこと書いてきたけど」
 メッセージ見返せばわかるけど覚えてないよと馬渕は笑った。
「嫌だった、とかは言ってなかったのか」
「内田が嫌ってことか? ないない。治療が痛かったとは言ってたけど、それくらいだな」
「そっ……か」
「昔実習で何度か一緒になって思ったけど、本条たぶん歯医者苦手だよな。だから心強かったんじゃない? 仲の良い内田が治療してくれるの。だからさ――」
 馬渕の声が遠のいていく。本条の気持ちを知れて嬉しかった。それと同時に、そんなふうに思ってくれていた本条に取り返しのつかないことをしてしまった後悔が押し寄せてきた。他の歯科医に診てもらうよう言ったときの泣き笑いのような表情を思い出す。俺が治療していいのかなんて悩む必要はなかったのに。自信がないくせにプライドだけは高くて保身に走って、本条を傷つけた。自分の治療だって、嘘を素直に謝って本条に治療を頼むことはできたはずなのに。
「内田?」
「……ああ。ごめん。……なんだっけ」
「だからさ、内田も本条に診てもらえばいいのにって思ったんだけど」
 今からでも遅くないだろうか。謝って治療を頼めば、本条はそれを受け入れてくれるだろうか。
「……馬渕」
「うん」
「やっぱり、本条に頼んでみるわ」
 望んだ結果になるのかはわからない。でも、この機を逃せば今度こそ次はないような気がする。幸い、と言っていいのかはわからないが花北との件もあり、どのみち連絡をしようと思っていたところだ。
「それがいいよ」
 それから少し近況だとか取りとめのない話をして、馬渕との通話を終える。そのまま、画面を少しスクロールして出てきた本条の名前を見つめた。