あれから、二人で本条の職場に戻り、馬渕に謝った。なんとなく察しはついていたのか、彼はよかったな、と笑って許してくれてあっさり帰って行った。
「悪いことしたな、馬渕には」
「アシストついてもらえばよかったか」
本条が俺にエプロンをつけながら言う。
「いや、結局働かすのもな……今度ちゃんと詫びをしねえと」
「ああ」
「お前よりによって遠くにいるやつに頼むんだもんな」
言ってしまってからはっとした。また偉そうな口をきいている。恐る恐る本条のほうを確認すると、幸い特に気にした様子はなかった。
「ちょうど連絡を取っていたし、それに、あれは本当だ。馬渕のほうが上手いというのは」
「そうなのか? つっても、あいつの治療受けたことはないんだろ?」
「治療はないが、実習は何度かペアになった。馬渕はとても気配りができる」
たぶん本条がすごく緊張していたんだろうということは想像に難くない。緊張を解そうと馬渕も頑張ったのだろう。
「俺は治療をしながら気配りができるほど器用じゃない」
そういう面で「上手い」か。とは言いながら実際にはそれなりに上手くやっているのだと思う。分院長を任されるくらいだから周囲からの信頼は厚そうだし、そのためには患者からの信頼を得ていることも必要だろう。気配りがあまりにも下手ならそうはいかない。本条は自分を過小評価しすぎるきらいがある。
「いいよ、気にしないでいつも通りやってくれ」
「……内田だと、いつも通りは難しいかもしれないが」
どういう意味だろうかと考えている間に本条が俺の顔を覗き込んできて、答えまでたどり着かなかった。
「そろそろ始めていいか」
頷くとゆっくり診療台が倒されていく。急に緊張が高まってきた。
今まで治療が痛かった経験はないが、今回は痛みが出ると思ったほうがいいかもしれない。正直、少し怖い気がするし、それから本条も地味に怖い。検診のときもこいつの反応が一番怖かったからな、と彼を見上げれば目が合った。表面麻酔だろう、綿球をつまんだピンセットを持っている。
「……」
「……ん?」
口開けて、と言われるのかと思って身構えていたが、本条はなにも言わないしなにもしてこない。無言で見つめ合う謎の時間が発生してしまった。
「えっと、本条?」
俺はどうしたらいいんだ。口開ければいいのか? そんな気持ちを込めて尋ねてみれば、本条は不思議そうに首を傾げた。
「目閉じないのか」
「は? ……え、目?」
目閉じてほしいってことか。まあ俺も患者に見られてるのはあまり居心地が良くないが……そういえばそんな話をしたような、と思い出したのと本条がそれを口にしたのはほぼ同時だった。
「内田は注射されるのを見ないと言っていたから、そうするのかと思って待ってたんだ」
「やっぱあの話か」
たしかに、そう言った。でもまだ表面麻酔だし、閉じたいときは勝手に閉じるし、律儀に待つ必要はないんだが、本条なりの気遣いなんだろうか。
「俺はどちらでもいいが」
「あー、わかった。閉じとく」
いずれそうするだろうし、まあいいだろう。目を瞑るとすぐに「口開けて」と本条の声が聞こえて、唇に指が触れる。そっと口を開くとその指が口の中に滑り込んできて唇を捲られ、左上の歯茎に綿球が置かれたのがわかった。
「麻酔するのは初めてか?」
目は閉じたまま首を小さく横に振ると、「そうなのか」と驚いたような本条の声が聞こえたが、すぐに「親知らずか」と納得したようだった。
実は親知らずだけじゃなく、乳歯も麻酔をして抜歯したことが一回ある。しかし虫歯の治療で麻酔をするのは初めてだ。抜歯もそれなりに緊張したが、そのとき以上に気が重いというか不安は大きいように思う。
しばらく待った後に綿球が取られ、少し押されるような感触とともにじわりと薬液が注入されていく。
「気分は悪くないか」
場所を変えて何度か麻酔を打ち終えてから、本条に尋ねられた。だんだん痺れてくる嫌な感じがするくらいで特に問題はなさそうだ。ただ、なにか言っても呂律が回らない気がしたので頷くにとどめると、
「本当か?」
とものすごく不安げに訊かれてしまった。
「ほんとらって……あ」
言わんこっちゃない。だから喋りたくなかったのに。多少の恨みを込めて本条を睨んだが、「そうか」と安心した様子で彼が笑みをこぼしたので、格好つけようとしている自分がなんだか馬鹿らしくなってしまった。