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「ありがとうございました」
 治療が終わり、花北さんに頭を下げる。痛みは出ず、治療した箇所を鏡で見せてもらったがほとんど判別できないくらい綺麗に修復されていた。
「お疲れ様。本当に痛くなかったの?」
 結局俺は最後まで体に力が入ったままで、それを案じてか花北さんにそう尋ねられた。
「はい。すみません、ちょっと緊張してしまったみたいです」
「……これまでの治療でなにかあった?」
「え? なにも……ない、ですが」
「そう。てっきり今まで通っていた歯医者でなにかあったのかと思ったよ。見た感じ今の先生に技術的な問題はなさそうだけど、怖い思いをしたとか、嫌な思いをしたとか」
「え……」
 一瞬にして花北さんの質問の意図を理解する。違います、内田は悪くないです、と口から飛び出しそうになったのを花北さんの言葉に遮られた。
「なにも訊かないでと言われたのに申し訳ない。でも治療中の本条の様子を見ていたら気になってしまってね。なにかトラブルでもあったんじゃないのかな」
「いえ、特になにもないです。俺が転院したくなっただけで」
「だからなぜ転院したくなったのかが気になったんだけど……やっぱり話すのは嫌?」
 話したくないほど嫌なことがあったのかと問われているようだった。誤解を解かなければならない。
「あの、本当に違うんです。その……これまでの担当医というのが友人だったのですが、俺が彼の気持ちも確かめず休みの日に治療に付き合わせてしまったので……もう迷惑をかけるのはやめようと」
 他の医院で診てもらうよう勧められたと話すとまた勘違いされそうな気がしたので、それは伏せることにした。
「なるほど。それで今日もこんなふうに予約を取ってきた?」
「はい」
 納得してもらえるだろうと思っていたのに、花北さんの言葉は思いもよらないものだった。
「本条、それは筋が通らないよ」
「え……?」
「そういうことなら、まずするべきは今まで通っていたその歯科医院の予約だ。そこはたしか土日も診療をしているところだろう? 君の休みに正式に患者として行けば迷惑だなんて気にしなくていい」
「そ、そう、ですね」
「別に今からでも遅くはない。予約を取って行けばいいじゃないか」
 花北さんの言う通りだ。理屈としては合っている。でも、そういう問題ではないのだと心のどこかで思ってしまう。
「無理です」
「どうして?」
 俺が黙っていると、花北さんの目がすっと細められた。
「もしかして、迷惑だからもう自分は診たくないとでも言われた?」
「そんなこと内田は言いません」
「それなら、はっきり言わなくともその内田先生とやらは本条にそう思わせた。そういうことかな」
「ちがっ、違います、内田は悪くないんです。嫌な顔ひとつしないで治療してくれて、いつも優しくて……迷惑だろうって俺が思っただけで……!」
 なんで花北さんは意地悪を言うのだろう。もともと厳しい面もある人で、そういうところも尊敬していた。でも内田のことをよく知らないくせに勝手なことを言うのは許せない。舌がもつれそうになりながらも感情の昂るまま話し続ける。そんな俺を落ち着かせるように花北さんが俺の肩にぽんと手を置いた。
「わかった。じゃあ本条は100%内田先生のことを思って、気遣いから転院しようとしたわけだ」
「……」
 そうです、と答えたかった。俺は内田に迷惑をかけたくなくて転院しようと思った、それは間違いない。でも本当に? そんな綺麗な気持ちで俺はここに来たのだろうか。
「違うのかな」
 心が静けさを取り戻していく。心地よく落ち着いていく感じではない。急速に熱が引いて寒くなるような感覚。
「……違う、気がします」
 迷惑をかけたくないというよりは、内田に迷惑だと思われたくない。俺の正確な気持ちはきっとこちらのほうだ。
 思えば、そんな気持ちの始まりは治療をしてもらうずっと前からあった。俺はずっと、内田が俺の口の中を見てもなお友人として、同じ歯科医として今まで通り付き合ってくれる自信がなかった。だんだんと虫歯が進行していくなか、彼に治療を頼もうと実は何度も思った。しかしそれができなかったのは内田の俺に対する態度が変わるのが怖かったからだ。
 学生時代もそうだった。「お前、すげえな」と内田から言われるたびに嬉しさより恐怖が勝っていた。
 俺は立派な人間じゃない。他人の気持ちに疎い。周囲に勧められるがまま受けた第一志望の大学には落ちた。歯科医を目指したのも滑り止めで合格したのが歯学部だったというだけだ。信念もなにもない。口内の状態が歯科医に相応しくない自覚もあった。ボロを出して内田の期待を裏切ったときに彼が離れていくのではないかと俺はいつも怯えていた。
「迷惑だと思われて……嫌われたくなかった」
 そんな恐怖から解放されたいがために俺は内田が差し伸べてくれた手を何度も拒んだのだ。頑なに花北さんに診てもらおうとしたのは内田への気遣いなんかじゃない。ただの保身だ。
 こんなことに気づきたくなかった。いかに自分がさもしい人間かを思い知らされただけだ。
 花北さんにも診てもらうのも失礼な気がしてくる。肩に載った手を外そうと右手を動かしかけた時だった。
「内田先生はそんなことで君を嫌いになるのか。薄情なものだね」
 しばらくの間沈黙していた花北さんが口を開いた。思わず花北さんの手を強く振り払う。
「そんなことって、俺が今までどれだけ彼に迷惑をかけてきたか……みっともないところを見せてきたか知らないでしょう」
「ああ、そうだね。知らない。ただ本条、逆の立場だったらどうだろう? 内田先生が、そのいわゆるみっともないところを見せたとしよう。君はそれで彼を嫌いになるのかな」
 内田が……? 虫歯を溜め込んでいて、休みの日に俺に治療を頼んできて、治療を怖がって……だめだ、想像もつかない。しかし想像もつかないがそれで嫌いになるかといえば、答えは明らかだ。検診を頼まれたときの気持ちを思い出す。俺みたいな歯科医に診せるのが心許ないと思ったのか、結局内田は別の歯科医院に行ってしまったが。
「頼ってもらったら嬉しいです、俺は」
「内田先生も同じかもしれないよ」
「そんなの」
「わからないね」
 あっさりと言ってのけた花北さんを恨めしく思いながら見ている俺の視線など気にも留めず、花北さんは言葉を重ねた。
「もしかしたら本当に迷惑だと思っているかもしれない」
「……どっちなんですか」
 ひとりごとのような小声で呟いてしまうと、さあね、と花北さんは肩をすくめた。
「じゃあ、俺はどうすれば」
「僕に訊かれても。本条がどうしたいのかだろう」
 俺がどうしたいのか。内田に迷惑をかけず花北さんに治療をしてもらうことが一番正しいと思っていたし、そうしたいと思っていた。でも、今はもうよくわからない。
 内田は俺の治療をすることを本当はどう思っていたのだろう。そして、この人も。
「僕はいつでも診る気はあるよ。またおいで。……本条が来たいなら、だけど」
 花北さんの表情は優しい。しかし到底歓迎されているようには聞こえなかった。