診療台が起こされて、口を濯ぐ。花北さんは無言で検診結果をパソコンに入力し終えると、「本条」とまた険しい顔で俺に語りかけた。
「僕がなにを気にしてるか、わかる?」
「虫歯が多いことですか」
それが思いついた唯一の答えだったが、花北さんはかぶりを振った。
「違うよ。たしかに少なくはない。でも治療しようという意思はあるわけだし、これからきちんとメンテナンスしていくつもりなら、それをとやかく言うつもりはないよ」
じゃあ何だというのだろう。つい首を傾げてしまうと、「右上だよ」と些か厳しい調子の花北さんの声が耳朶を打った。
「どう見ても治療途中だ。そんな状態でしれっと他の歯を他院で診てもらおうなんて、それも歯科医がそんなことをするなんて僕には考えられない」
「…………そうですね」
言われてみれば、当たり前だ。俺も他院で入れたと思しき仮封や仮歯のある患者にいきなり他の箇所を治療してくれと言われたら戸惑うだろう。どうして考えが及ばなかったのか不思議になってくる。
「すみません。でも、明日には右上の治療は終わる予定ですし、大丈夫です」
「それならそうと先に言ってもらわないと……じゃあ転院したいと、そういうことなのかな」
「はい」
花北さんの表情が少し和らいだ。このまま治療を承諾してくれることを期待したが、質問がまた続く。
「今はどこで治療を受けているの?」
俺の職場です、と言いそうになったが恐らく質問の意図はそれではない。内田の働いている歯科医院の名前を答える。
「今の先生には話してあるの?」
「いえ……まだ」
「話す予定は」
「明日話します」
「それならいいけれど。患者が突然来なくなるのは辛いものだよ」
俺より五年長くこの仕事をやっているのに、そこまで患者のことを思える花北さんが少し羨ましい気がした。治療途中で来なくなる患者なんてごまんといる。いちいち気にしていたら自分の心がもたない。そう思って俺はとうになくした感覚だった。
「できればその先生の所見とか、治療の記録とか、レントゲンなんかも見たいけれど、もらうことはできそう?」
「訊いてみます。そこまで話せるかわからないですが」
ちゃんと話をしたいと思っている。でも明日、内田がまたすぐに帰ってしまって引き留めることができなかったらどうなるかわからない。
「頼んだよ。治療はそれが来てからにしよう」
「え……?」
どうして。今日治療してもらわないと意味がないのに。
「今はまだその先生が担当医という感じだからね。ちゃんと引き継いだうえで治療を始めたい。そのほうが本条のためにも、より適切な治療ができる気がするよ」
「いえ、俺のことなら気にしないでください。うち……担当医にも話します。だから今日やってほしいんです。左上じゃなくても花北さんの思う所で構いませんから」
食い気味に言った俺を花北さんは呆気に取られたような顔で見ていた。
「どうしたんだ急に。冷静な本条らしくもない」
「お願いします。なにも訊かないでどこか1箇所でいいので治療してください。……その後は花北さんの計画に従います」
とりあえず明日、他の歯医者に通い始めたところを内田に見せられればいい。その一心だった。
「本条にこんなふうに頼み事をされるなんて初めてだね……」
俺の勢いに押されたのか、花北さんは軽く息をついてパソコンの画面、俺の歯式を確認する。
「仕方ない。僕も左上が妥当だと思う」
「じゃあ」
「今日だけだよ。今後については、また話し合って決めよう」
「ありがとうございます」
準備をしてくると立ち上がった花北さんについていこうとすると、「だから座っていていいよ」とまた笑われてしまった。もう怒ってはいないような表情にほっとする。
気が抜けたせいか、診療室に一人になるとまた治療への不安が募ってきた。