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 目を開けると白い壁が見えた。俺は椅子にもたれかかるようにして座っている。
 ここは……? 体を起こしゆっくりと首を回して、凍りついた。左にはスピットン、右にはブラケットテーブル、ハンドピース。
 俺はどうやら歯科医院の診療台に座っているらしい。
 右下の歯がシクシクと痛む。なんだこれ、悪夢? 頬をつねろうとした俺の前に知らない顔が現れた。
「おはようございます」
 一瞬にしてその人に目を奪われ、驚きも恐怖もあったはずなのに微かな声一つ出なかった。
 俺より少し年上だろうか。彫りは深いのに栗色の髪と白い肌のせいか儚げな印象を受ける。彫刻のようというベタな比喩があるが、並外れて整った顔を目の当たりにすると実際にそう表現したくなるのだと理解した。
「気分はどうです?」
「き、きぶん……?」
 最悪だったような記憶はある。今は、どうだろう。状況についていくのが精一杯でよくわからない。
「ごめん、驚かせたかな。僕はここの院長で今泉いまいずみといいます」
 俺の顔を覗き込んでいた人物、今泉先生はそう言ってスツールに腰掛けた。長い脚の先には小さなヒーターが置いてあり、俺のほうを向いていた。
「1階の鍵を締めに行ったら君が蹲っていて。体調が悪そうだったので連れてきてしまいました。あ、ダウンはあちらに干しています」
 今泉先生が俺の左手側の壁を手で示す。着ていたダウンがハンガーにかけられていた。
 だんだん覚醒してきた。俺が雨宿りをしていたあのビル、2階は歯科医院だ。知っていたのによほど余裕がなかったのか歯科医院だと意識せずに近づいてしまった。意識していたら絶対に避けたのに。
「3階に自宅もあるのですが、散らかってるし、暖房の調子が悪いし。待合室は椅子が小さいのでここが一番いいかなと思って。まあでも、目が覚めたら歯医者さんなんて良い気持ちはしないですよね」
 すみません、と今泉先生は頭を下げた。
「……いえ。助けてくれて、ありがとうございます。俺ずっと寝てたんですか」
 壁の掛時計を見ると、0時前。家を出た時刻から1時間ほど経っている。
「ここに着くまでは半分起きているのかなと思っていましたが、ユニットに下ろしてからはぐっすりでしたよ」
「そう、ですか」
 こんな場所で寝ることができたなんて信じられないが、ストレスからか寝付きの悪い日が続いていたし歯の痛みが気になって食事の量も減っていた。体力的に限界だったのだろう。
「すみません。ちょっと疲れすぎてたみたいです」
「謝る必要はありませんよ。疲れだけですか? どこか調子が悪かったのでは」
 歯が痛いと言えば今泉先生は診てくれるのだろうか。魔が差したように考えてしまった。考えただけのつもりだった。
「……歯が」
 気がついたときには声に出ていた。
「歯、ですか?」
 長い指で自らの右頬を軽く叩き、今泉先生が首を傾げる。
「いや、ちが……」
 違うと言いたかったのにどうしてか、最後まで言えなかった。否定したらどうなるのだろう。それを想像してしまった。冷たい雨空の下に戻って効くかどうかもわからない鎮痛剤を買って帰り、一人で歯の痛みに耐えながら過ごしていくのだ。心の整理がつくのが先か歯の痛みに耐えられなくなるのが先かわからないが、そのうち誰かに治療を頼むことになるのだろう。
 要するにこの非日常のような状況から解放されて元の生活に戻るだけ。それだけのはずなのに、戻るのがとても怖いと思った。
 穂積以外の歯科医師に治療を頼むことへのためらいは変わらずある。でもそれ以上に、誰かに助けてほしい。初めてその気持ちを自覚した。
「……そうです。歯が、痛くて」
「もしかしてもともと受診するつもりでここに?」
「いや、本当に偶然で。鎮痛剤を買いに行く途中で雨が降ってきたので、雨宿りできそうなところに入っただけで。でも」
 言っていいんだな?
 自問してから口を開いた。
「診てもらいたい、です。今日じゃなくて後日でいいから、診てもらえませんか」
 言ってしまった。承諾を得られるのか不安に駆られる。でもその気持ちはすぐに払拭された。
「もちろんいいですよ」
 穏やかに微笑み、今泉先生が答える。
「鎮痛剤が必要ということはだいぶ辛いでしょう? 君さえよければ今から診ましょう」
「いいんですか、こんな時間に」
「大丈夫です。これくらいの時間に来院する方も時々いらっしゃいますから」
「夜間診療もやってるんですか」
「ええ、裏メニューのようなものですが」
 意味ありげな言い方だ。さらに尋ねていいものか迷っているうちに今泉先生は俺に手を差し出した。思いのほか骨ばった大きな手だ。
「保険証は持っていますか?」
「あ……はい」
 ポケットに突っ込んできた財布から保険証を出そうとして手が止まった。これを出したら歯科関係者だとばれてしまう。きっと歯科医師だというところまで明かすことになりそうだ。
「どうしました?」
「……すみません、やっぱり帰ります」
「え? どうして」
「どうしてもです」
 歯科医師がインレー脱離を放置して夜中に突然治療を頼むなんて恥だ。
 財布をしまい、今泉先生の困惑したような顔には気づかないふりをしてユニットから立ち上がる。ところが急に立ったせいか立ちくらみがしてふらついてしまった。
「わ……」
「危ない」
 今泉先生が立ち上がり、俺の体を支える。こうして密着するような距離になると先生の体格の良さがよくわかった。
「ひとまず座ってください」
 支えられながら再びユニットに腰を下ろす。
「保険証、忘れてしまいましたか? それとも何か出せない事情があるとか……よかったら話してください」
 事情というにはあまりにもつまらない、俺が体裁を気にしているだけのことだ。それなのに今泉先生はもっと深刻な想像をしているのだろうということが口調から伝わってくる。
 変な疑いを持たれるのも嫌なので腹を括った。
「これ見ても、何も言わないでもらえませんか」
 再び財布を出し、保険証を見せる。今泉先生はそれを手に取って目を落とした。
「お名前、丹野くんというんですね」
「はい」
 保険証の上を今泉先生の視線が動いていき、そして、目が見開かれた。
「もしかして丹野くんも歯医者さんなんですか」
「だ、だから言わないでって……!」
「え? それを気にしていたんですか」
「そうですよ。歯医者が虫歯で、鎮痛剤買いに行く途中で力尽きて別の歯医者さんに拾われるって……」
 状況を口に出してみると情けなさが募る。消えたい。その思いが声の小ささに表れる。
「恥ずかしすぎて」
 しかし今泉先生はすぐに否定した。
「そんなことありませんよ」
「でもさっき驚いた顔してたじゃないですか」
「すみません。やっぱり突然同業者に会うと驚いてしまって。悪い意味ではないんです。嬉しいですよ」
「嬉しい?」
「ええ。丹野くんの言葉を借りるなら、歯医者さんが歯医者に拾われるなんて何かの縁だと思いませんか? よかったら仲良くしてください」
 今泉先生の言葉が嬉しくなかったといえば嘘になる。でも、認めるわけにはいかなかった。
 俺にとっての特別はまだ穂積だ。だから特別な意味を感じてしまいそうな言葉をこの人との関係に当てはめたくない。
「縁なんかじゃないと思います。ただの通りすがりの、迷惑な患者です、俺は」
 厚意を無下にするだけでなく、卑屈な、嫌な言い方だ。今泉先生は気分を害しただろうと思ったが、笑って肩を竦めただけだった。
「ふられてしまいましたね」
「そういうわけじゃ……。今泉先生が嫌とかではなくて、他に主治医がいて。だからあまり仲良くはできないかも、というか。すみません」
「謝らないでください。主治医がいらっしゃるなら、僕は応急処置程度に留めたほうがいいですか?」
「いや……主治医はいたんですけど、今はもう……頼めなくて……。すみません、何言ってんでしょうね」
 思わずぐしゃりと髪を掴んだ。
 経緯を話してしまったほうがすっきりするだろうか。でも、どこまで話していいのだろう。今泉先生にとっては赤の他人のくだらない失恋話だ。そんなものを聞かされたところで困るだけだろうに。
 何も言えないでいると、「丹野くん」とあたたかく呼びかけられた。
「大丈夫です。話せることであれば、続けてください」
 奇麗な人だ。俺にまっすぐ向けられた笑顔を見て改めてそう思う。言動もどこか浮世離れしている。その現実味の無さゆえなのだろうか、こんなに甘えてしまうのは。
 気づけば俺は穂積のことを話し始めていた。