バレンタインの夜。片恋の相手にもらったチョコを噛んだら右下6番が欠けた。
相手は俺と同じ歯科医師で、そして俺の主治医だ。明日出勤したら文句の一つでも言ってから治療を頼もう。無意識のうちにそう考えてすぐ虚しくなった。
彼、穂積は昨年末にうちのクリニックを辞めていったのだ。
「丹野、これまだ誰にも言ってないんだけど」
一年ほど前、お互いの定期検診をした後。秘密の共有めいた出だしに胸を躍らせたのも束の間、穂積は打ち明けた。
「今度先輩が開業するんだけど、一緒に働かないかって誘われた」
“先輩”と穂積が愛称のように呼ぶ相手は一人だけで、何かにつけ話題にのぼっていた。大学でお世話になったという、遠方にいる歯科医師だ。
「どうするの」
穂積の答えは分かっていたのに、尋ねたのは少しでも迷いを見せてほしかったからだと思う。
「もちろん行くよ」
晴れやかな笑顔だった。近くにいたかったのも、ずっと診てもらいたかったのも俺だけなのだと痛感させられた。
「丹野の検診は友達に頼むつもりなんだけどいい?」
「あぁ、……いや、いいよ。俺にも当てはあるから。次からはその人に診てもらうな」
本当は当てなんかなかった。頼めそうな歯科医師がいなかったという意味ではない。他の歯科医師に診せてしまえば穂積がいなくなることを認めるようで誰に頼むか考えられなかった。
そんな状態のまま時は過ぎていき、秋の初めごろだったか、右下6番のインレーが脱離した。痛みはなかったが見てみれば明らかな二次カリで、かつての俺ならすぐ穂積に治療を頼んでいたはずだ。でも次からは他の人に診てもらうと言った手前撤回はできなかった。徐々に歯の痛みが出てきても誰にも診せられず、痛みと、まるで人が変わってしまったような自分に足がすくむような恐怖を感じる日々だった。
退職の直前、穂積は検診を頼んできた。俺も最後に診てほしいと言えばよかったのかもしれない。だが、最後の最後にこんな歯を晒したくなくてとうとう言えなかった。
このチョコはバレンタインとはなんの関係もなく、穂積が退職時の礼として職場に箱で置いていったものだ。そろそろ賞味期限が切れるだろうと漸く食べてみればこの様だった。
欠けた瞬間はさほど痛みはなかったが、一拍遅れて、溶けたチョコが齲窩をじくじくと刺激してくる。それはたちまち痛みに変わった。チョコを洗い流せば少しは痛みが軽くなるかもしれない。洗面所へ行きゆっくり口を濯いでみると、水もひどく沁みた。
「んっ! げほ、」
吐き出そうと思うより先に水が溢れた。ぽたぽたと口から水を滴らせながら冷たい洗面台に手をつき、肩で大きく息をする。右下の歯は一段と強く痛んだ。
早く治まってくれ。俺には治療を頼める相手がいない。そう思うと目の前が滲み出した。
こんなことで泣くのか、俺は。頭の中の冷静な部分が自分自身を嘲笑うように見ている。それでも目頭から涙が落ちていくのを止められなかった。