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 夜間窓口で事情を話すと、雨谷先生のことは伝わっていたようで入院病棟に案内された。
 俺も医療者の端くれだが、医科の病棟というものはいつ行ってもどこか不安な気持ちに苛まれてしまう。遠くから心電図の音が聞こえてくる。両脇に病室の並ぶ白い廊下を雨谷先生と並んでひたひたと歩いた。
「ここか」
 雨谷先生が病室前に掲げられたプレートを見て部屋番号と今泉先生の名前を確認する。説明によると大部屋の空きがなく、一人部屋になったそうだ。
「今泉ー」
 名前を呼びながら部屋に入った雨谷先生に続く。部屋にはベッドと、その横には点滴台があり、管は今泉先生の腕に繋がっていた。
「寝てるな」
 雨谷先生と一緒にベッドを覗き込むと、今泉先生の顔はいつにも増して白く見えた。もともと現実離れした綺麗な顔立ちだが、いつもとは違う、生を感じない置物のように見えて思わず手を伸ばした。
「今泉先生」
 点滴が繋がっていないほうの手に触れる。普段から体温は高くなかった。それがさらに冷たく感じる。俺も他人のことを言えないくらい手は冷たいが、それでも何かしたくてそっと手を握った。すると瞼がわずかに動いた後、ゆっくりと目が開かれた。
「……丹野くん?」
「連れてきちゃった」
「……雨谷」
 体を起こそうとした今泉先生を慌てて止める。今泉先生は初め「大丈夫です」と抵抗していたが、俺たち二人に大丈夫じゃないときつく言われ、諦めたように頭を枕につけた。
「すみません。迷惑ばかりかけて」
「丹野くんのクラウンはしっかり入れといたからね」
「よかった……」
 今泉先生が安心したように目を細める。それを見て言葉が出てこない俺をよそに、雨谷先生は病室のどこからかパイプ椅子を二つ見つけてきてベッド脇に並べて置き、俺にも座るよう促した。
「ありがとう、雨谷」
「任せなさい。で、検査どうだったの」
 雨谷先生も椅子に座り、ベッド柵に手をかけながら尋ねる。
「やっぱり過労みたい」
「心配させやがって、この不養生野郎」
「ごめん」
 こんなふうに誰かとタメ口で話す今泉先生を見るのは初めてだ。
「しばらく代診するから、しっかり休めよ」
「でも雨谷は」
「俺はわりと融通きくんだって。その分バイト代は頼むぜ?」
 冗談めかして言った雨谷先生に、今泉先生は真顔で頷く。
「それはもちろん。……ありがとう」
 入り込む余地はなくただ見ていると、雨谷先生がこちらに視線を投げた。
「いざとなったら丹野くんもいるし」
「い、いや俺は無理です!」
 今泉先生の代診なんて恐れ多すぎる、という意味だったが、今泉先生は違うように受け取ったらしい。
「そうだよ、雨谷。丹野くんとはもうすぐお別れなんだから」
 ね、と今泉先生が微笑む。
 やはり別れたくないのは自分だけなのではないか。自信がまだ持てず俺は今泉先生の言葉を否定できない。
 沈黙が落ちると、雨谷先生がポケットに手を突っ込みながら立ち上がった。
「あっと、悪い。ちょっと電話してくる」
「え?」
「奥さんに遅くなるって電話するの忘れてた」
「心配されてるんじゃない? もう帰っても……」
「大丈夫。丹野くん、今泉が無茶しないように見張っててね」
「は、はあ……」
 雨谷先生はポケットからスマホを取り出し、病室から出て行った。扉の閉まる音。
 また沈黙が落ちるかと思ったが、今泉先生が俺を見て言った。
「丹野くん、改めて今日はすみません。最後までちゃんと丹野くんの治療をしたかったのですが」
「ううん」
 言え、今日が最後じゃないって。
 自分を叱咤するが、なかなか勇気が出ない。
「でも雨谷が診てくれてよかった。これで心配せず食事もできますね」
「雨谷先生もですけど、今泉先生のおかげです」
「僕は何も」
「俺のほうこそすみません。時間外ばっかりお願いして。疲れてたのに」
「謝らないでください。僕が望んだことですから。……本当に、こんなに疲れている自覚はなかったんです」
 今泉先生は肩を竦めていて、いまだにあまり自覚がないように見えた。今後も同じことを繰り返すのではないかと不安になる。
「それめちゃくちゃ危ないですよ。これからはもっと休んでください」
「そうですね。ただ、休んでもすることがなくて」
「休むときは休むんです。もうちょっと真剣に考えてください」
 繋いだ手に思わず力が入る。
「俺、一瞬だけど、今泉先生ともう会えなかったらどうしようって、思って……」
 今泉先生は少し目を見開いたが、すぐ困ったように微笑んだ。
「そんな心配はしなくてよかったのに。どちらにせよ丹野くんはもう会ってくれないんでしょう?」
 その一瞬、言葉の端に今泉先生がずっと踏み込ませまいとしていた弱さが滲んだような気がして、俺は考えるより先に答えていた。
「会います」
「え?」
「また俺と会ってください」
「すみません、気を遣わせてしまったなら」
「気は遣ってません。もともと今日の治療が終わったら言おうと思ってたんです。俺は、これからも今泉先生に診てもらいたい。前は断っておいて遅えよって思うかもしないけど……仲良く、してほしいです」
 今泉先生がゆっくりと目を瞬かせた。笑みが消える。
「どうして?」
 決して嬉しそうには聞こえない声に不安を抱きつつも、正直に答える。
「ずっと迷ってはいました。今泉先生と一緒にいると、なんかあったかくて。でも昨日穂積に会って」
「穂積先生に……」
 穂積の名前を出した瞬間、いつも凪いでいた海にさざ波が立ったように今泉先生が反応した。
「結局ご飯食べて、……ちゃんと失恋しただけだったんですけど。俺そのあと今泉先生に会いたくなって、医院の1階までは行ったんです」
「もしかして夜ですか」
「え、気づいてましたか?」
「似ている後ろ姿を見たような気がしていました。……丹野くんに会うのは明日が最後だなと考えていたので、幻覚でも見たのかと思っていたんですよ」
「それ、本当に俺です。都合良く使っちゃう気がして昨日は帰ったんです。そんなんじゃなくて今泉先生と本当に知り合いたい」
 今泉先生の表情はなかなか晴れないままだった。
「知ったらきっと、がっかりします」
「知らなきゃわかりません」
「でも……」
 今泉先生の視線が滑るように俺から逸れていく。
「丹野くんは僕のことを優しいとか、完璧とか思っていませんか」
 こんなことを訊くのは決して自信があるのではなく、俺がそう言ったことがあるからだろう。そして、あのとき今泉先生はそれを否定した。
「優しいとは思ってます。完璧はちょっと、その、今日の件で違うと思いましたけど」
「がっかりしないんですか」
「全く」
「でも丹野くんはこの前、僕がカリフリだったらいいなと言ったでしょう」
「……言いました、けど」
 話の方向性が見えず、つい首を傾げてしまう。
「完璧を求めているのかと、てっきり僕はそう思ったのですが」
「え? いや全然そういう意味じゃないです」
「ではどういう」
「今泉先生が痛い思いしたことなかったらいいなって、それだけです」
 その瞬間、今泉先生の顔が歪んだ。唇を結び、目を伏せる。
「今泉先生」
 思わずベッドの上に身を乗り出すと、今泉先生は泣く前の子どものような表情を見られまいとするように俺から顔を背けた。
 どうしていいかわからない。しばらく挙動不審になってしまったが、椅子に腰を下ろす。それから、俺は今泉先生にしてもらったことを思い出して繋いでいた手にもう片方の手も添えた。両手で包み込む。
「俺の手がもっと温かければよかったんですけど」
 今泉先生がゆっくり俺のほうに向き直り、首を横に振る。
「丹野くんは温かいです、初めて会った日から」
 次第に手の温度は溶け合い、冷たさを感じなくなっていった。