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「今泉って人生イージーモードだよな」
 中学生の時だった。進路や将来について真剣に考え始める頃。友人は羨ましそうにそう言ってきた。
「え? どこが」
「将来はお父さんの歯医者継げばいいから進路悩まなくていいし、そんな顔面があれば大抵の女子には好かれるし。なんも心配ねえじゃん」
 今となっては子どもの発想だなと聞き流せるが、当時はひどくショックを受けた。生まれも、容姿も、貰い物だ。僕が努力して手にしたものではない。そんな偶然のおかげで楽な人生を歩んでいる人間。なんて魅力がないのだろう。
 二度とそんなふうに言われたくない。だから自分に付加価値をつけようと思った。勉強に打ち込み、体も鍛えた。人に優しくあろうとした。
 それを何年も続け――「完璧」だとか「近づきがたい」などと言われるようになった僕は、望んだのとは違う方向に転び始めていることに薄々気づいていた。

「別れてほしい」
 医院の継承と父の死去により忙しい日々を過ごす中でやっと作れたデートの時間。
 食事の席についてまもなく、恋人はそう切り出した。僕から想いを伝えて2年ほど交際が続いていた同業者。当時一番の心の拠り所と言っても過言ではない大切な人だった。
「最初から思ってた、あなたと私は釣り合わないって。見た目も、中身も、……歯だって私はボロボロなのに」
「僕は釣り合わないなんて思ってないよ」
「私は思うの。他の人から言われてるのも聞いた。……ごめんなさい。あなたにはもっと、いい人がいる」
 なかなか会う時間が取れずにいたことも彼女を不安な気持ちにさせた一因だっただろう。苦しそうな恋人を見てそれ以上自分のもとに引き留めることはできなかった。何か困ったことがあったらこれからも主治医として力になるから。それだけ伝えて別れ話を受け入れた。

 再会したのは、それから1年以上経った日の夜。歯が痛い、他に頼れる人がいないと電話をかけてきた彼女の治療をした。勝手でごめんなさいとしきりに謝られたが、こんなときだけでも会ってくれたこと、頼ってくれたことが嬉しかった。
 あれを見るまでは、単純にそんな気持ちを抱いていた。
 治療が終わり、彼女を診療室に待たせたまま処方薬を取りに行って戻ってきた時。彼女はスマホを見ていた。僕が戻ってきたことに気づいたのか画面を消す。その間際、待受が偶然目に入った。見知らぬ男性の隣で笑う彼女の写真。
 そういえば今日はバレンタインデーだったなと、その時になって思い出した。
「お待たせ。薬出しておくから、麻酔が切れて痛むようなら飲んでね」
 何食わぬ顔で薬の入った袋を渡す。彼女はそれをスマホと一緒に鞄にしまった。
「ありがとう」
「災難だったね、こんな日に。デートの予定とかなかったの?」
 未練の欠片もないただの主治医を演じて聞いてみる。演技はうまくできていたようで、彼女は初めためらう様子を見せたものの素直に答えてくれた。
「デートは週末にしようって約束してる。チョコもそのとき渡すの」
「そっか」
 2年前のバレンタインを思い出す。治療の腕はたしかだが料理に関しては不器用な彼女がトリュフチョコを作り贈ってくれた。チョコの少しいびつな形や飾りつけを愛おしく感じたものだ。
「どうして相手がいるってわかったの」
「ごめん。さっきスマホが一瞬見えて」
「あ……」
 スマホが入った鞄を両手で押さえ、彼女がはにかむ。
「幸せそうでよかった」
 嘘ではなかった。ただうまく笑えていたか今でも自信がない。

 彼女が帰った後の診療室には静寂が満ちていた。
 だいぶ遅くなってしまった。そろそろ片付けをしなければ父が様子を見に来るだろう。書類作成や時間外診療で長時間医院に残っていると、父は体調が悪いにもかかわらず僕を心配して3階から下りてくる。
 いや、違う。下りて“きていた”。もう来てくれることはない。
 恋人のことも父親のことも吹っ切れたと思っていたのに。どうしようもない寂寥感に襲われ、スツールから浮かせていた腰を下ろした。
 
 そのままどれくらい時間が経ったのか、激しい雨音が聞こえて我に返った。
 1階の施錠がまだだ。階段を下り、内側から鍵をかけようとしてふと、駐車場の隅で蹲る人影に気づいた。
 
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