金曜日の夜、約束した店の前に現れた穂積は記憶の中と同じ表情のまま、頬は少しふっくらとして見えた。
「久しぶり。元気そうだな」
「めっちゃ元気。ごめん結構待った?」
「いや、そんなに」
「よかった。入ろう」
店は、美味しい魚が食べたいという穂積の希望で決めた。内陸部に引越したのでこちらほど新鮮な魚が出回っていないらしい。席に座り、飲み物と刺身、焼き物なんかを穂積に選んでもらう。
「丹野は……」
穂積がじっと俺の顔を見てくる。そして破顔した。
「変わんないな」
そう見えたことに安心した。
実際にはいろいろ変わった。例えば歯のこともそうだし、穂積への想いも。
もちろん想いが消えたわけではない。でも今さらやり直そうとは思っていなかった。想いを告げたところで、新たな道を歩み始めている穂積にはノイズにしかならない。想い人ではなく旧友に会うため今日はここに来た。自分にそう言い聞かせていた。
注文したものが続々に運ばれてくる。乾杯して食事を始めると、時の経過を感じないくらい話は弾んだ。飲むと穂積はいつもよりさらに上機嫌になる。そういう穂積と飲むのが楽しくて好きだった。
「仕事はどう?」
「順調。先輩と働いて学ぶこと多いし」
「元同僚としてはちょっと複雑だな」
冗談めかして言ってみると、穂積が「いや!」と慌てたように手を振った。
「こっちでも学びはあったよ! けどやっぱり尊敬してる人だからさ。経営のこととかも少し聞いたりしてて」
「え、穂積開業するの?」
「まだ先だけど、ゆくゆくはね。丹野は考えない?」
「俺はまだ全然……」
そんな仕事の話に始まり、未来のことがあれこれ話題にのぼる。そのうちに雲行きが怪しくなっていくのを俺は感じていた。
とうとう穂積がその単語を口にする。
「丹野は結婚とかしたい?」
かつての想い人を前に、すぐには答えられなかった。
いっそ言ってしまうか? アルコールで麻痺し始めた頭には一瞬そんな考えが浮かぶ。しかし、あらかじめ胸に刻んできた決意が勝った。
「……いや。それも考えてないかな」
「そっか」
穂積は?と問い返すことまではできなかった。だというのに、穂積は自ら話し始める。
「実はさ、最近同棲し始めて」
声も出なかった。口に運びかけていたグラスを持ったまま、固まってしまう。
「待ってそんな驚く?」
穂積の声で我に返り、ゆっくりとグラスを下ろした。
「……恋人、できたんだ?」
「あれ? 言ってなかった? ずっと遠距離だったんだよ」
相手は大学の同級生で学生時代に交際を始めたと、穂積は話した。引越したのももちろん先輩がきっかけだが恋人の近くにいたいというのも大きな理由だったことも。「丹野だから言うけど」と、昨年のあの日と同じ、穂積は秘密を共有するように明かした。
頭を殴られたような衝撃はなかった。ただ、テーブルを挟んで向き合っているだけの穂積との距離が少し開いたような気がした。もう、手を伸ばしても決して届かない。
“もう”ではないか。最初から届きようもなかったのだ。
食事を終え、穂積が滞在しているホテルの前まで一緒に戻った。
「こっちに来るときはまた連絡するね」
「うん。元気で」
「丹野も」
穂積と別れ、ホテルを通り過ぎて一つ目の角を曲がる。後ろに目を向けると穂積が大きく手を振っていた。それに手を振り返し、大通りに出る。
バス停の時刻表を見ると、自宅近くを通る路線はしばらく便がなかった。仕方なくタクシーを拾って家の住所を伝えた。
車の通りは少なく、15分程度で家の近所まで着いた。信号待ちでちょうど今泉歯科の前に止まる。窓の外を見上げると2階の電気がついているのが見えた。あそこに今泉先生はいるようだ。
初めて会った日にヒーターで体を温めてくれていたこと、失恋話を聞いてくれたこと、歯の治療をしてくれたこと……今までのことが次々に思い出される。手を握ってくれたこと。
「……すみません、ここで止めてもらえませんか」
ドライバーに頼み、精算をしてタクシーから降りた。まっすぐ今泉歯科のビルへ向かう。また雨宿りがしたくなってしまった。
でも、入り口に着いた時。見上げるとちょうど2階の明かりが消えた。
「都合良く使ってください」と今泉先生は言っていたが、やっぱりこんなのは狡いだろう。
一歩後退る。階段を降りてくる足音に俺は背を向けた。
明日、治療が終わったら今泉先生に伝えよう。これからも診てほしい、と。
ずっと迷いがあったが、今日の話を聞いてようやく穂積への想いを過去に置いていけそうな気がしている。そして穂積と会った後すぐ、今泉先生に会いたいと思ったことも否定しようがなかった。このまま今泉先生と会えなくなるのは嫌だ。ちゃんと、今度は都合良く利用するような形ではなく、一から知り合いたい。
今泉歯科から着信があったのは、翌朝のことだった。