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「椅子起こしますね」
 治療が終わり、CRで修復した右下7番を今泉先生に手鏡で確認してもらった。
「ありがとうございます、丹野くん」
 今泉先生はそう言って、この日一番柔らかな笑顔を見せてくれた。
「今泉先生、このあと時間ありますか」
 エプロンを外し、こっそり尋ねる。
「ありますよ」
「あの……もし都合とか体調がよければ、一緒に食事に行きませんか」
 今泉先生は驚いたように俺を見たが、すぐにその顔には笑みが広がった。
「喜んで」
「じゃあまた後で連絡します」
 麻酔が切れる時間と俺の仕事が終わる時間はちょうど良いタイミングになった。俺たちは近くの店で待ち合わせ、ゆっくり夕食を楽しんだ。

 店を出る頃には雨がやんでいた。
 どちらから提案したわけでもなく自然と歩いて家に向かう。店で会話した余韻を楽しみたい気分だった。
 家に近づくにつれ、周囲に人も車も少なくなっていき、通りに俺たちの会話がよく響いて聞こえる。夜の空気は冷たいが、吐く息は真冬と違って白まない。初めて今泉先生に会ったバレンタインデーに通ったのと同じ道でも景色はずいぶん違って見えた。
 今泉歯科に着く。代診の雨谷先生は時間外診療をするようなことはなく、今日は1階の扉が閉まっていた。鍵を開け、今泉先生が俺を振り返る。
「では、また定期検診で」
「いやいや、それまでにまた会ってください」
「いいんですか」
「もちろんです。また連絡しますね。……あとこれ」
 店に行く前、一旦家に帰って取ってきたビニール傘を差し出す。今泉先生に借りていた傘だ。
「返すのが遅くなってすみません。あの日は本当にありがとうございました」
 今泉先生はどういうわけか傘をまじまじと眺めていた。
「どうかしましたか」
 今泉先生がゆっくりと首を横に振る。
「僕は、これを返されるのが怖かったときがありました。こんな気持ちで受け取るとは思ってもみなかったです」
 白い指先が傘の柄をしっかりと握る。そして今泉先生の目は俺の後ろに向けられた。
「霽月ですね」
 空を見上げ、今泉先生が言った。
 あの物語に出てきた言葉だ。一晩限りで消えてしまったレストラン。しかしその夜、主人公の目には月がとても美しく映るのだ。彼にとってあの一晩は大きな意味があった。
「雨上がりの月、でしたっけ」
「ええ」
 濃紺の空に小さな三日月が冴えている。
 俺たちは一晩では足りないようだから、またこんな日を重ねていく。