「一旦起こすので、うがいしてください」
麻酔を終え、今泉先生に声をかけて診療台を起こした。
慣れていないだろうからうがいも難しいかもしれないと心配して見ていたが、問題なくできたようだ。
コップを置き、今泉先生は背もたれに体を預けてこちらを見た。
「丹野くんは麻酔が上手ですね」
「ほんとですか」
「ええ。僕が怖がりすぎて恥ずかしいくらいでした」
「そんなことないですよ。注射って、やっぱり怖いですから」
「丹野くんもそうですか? いつも上手にお口を開けている印象でしたが」
「ま、待って今泉先生」
慌てて今泉先生の言葉を遮る。こういう場でなければ手を伸ばして口をふさぎたかったくらいだ。
「その、ここでそういう話は」
幸い次の準備をしてくれているDHさんが俺たちの話を聞いている様子はないが、ここで俺が患者のときの話をされるのはなんだかとても恥ずかしい。
今泉先生も気づいてくれたようで、はたと自らの口に手を当てた。
「失礼しました」
「いや、俺が見栄張ってるだけなんですけど……」
「いえ、僕も先生と呼ばないでとお願いしたのに気が回らず」
「……えっと、そろそろ麻酔効いてきましたかね」
お互い、いつもと違う立場に慣れきっていない感じがある。ぎこちなくも俺は術者として治療を進めるべく先を促した。
「痺れたような感じはします。これが効いてるということですよね」
「恐らく。確認してみましょう」
診療台を倒し、探針を取る。
「開けてください」
右下7番の咬合面を検診の時と同じように引っかいてみる。
「痛くないですか?」
「はい」
「よかった。もしも痛くなってきたときは手を挙げて教えてください」
「わかりました」
「じゃあ削っていきますね」
タービンとミラーを取って振り向くと、今泉先生は不安そうな目で俺の手元を見ていた。
歯を削るなんて何回経験しても嫌なのに、初めてならなおさらだろう。
「結構音とか振動は大きいですけど、当分痛くはないはずです」
「そうですね」
今泉先生も知識としては知っているはずだが、目には拭いきれない不安が映し出されていた。
「今泉さん」
呼びかけ、目を合わせて、両手の指先でそっと顎に触れる。
「大丈夫です。なるべく辛くないようにしますから。試しに10秒だけやってみましょう」
「はい」
「止めてほしいときは我慢しないで教えてください」
今泉先生は頷き、目を閉じた。
「開けてください。……少し俺のほう向いてくださいね。お水が出ますよ」
言わなくてもわかっているはずだが、急に来たら驚くかもしれないし、と思い、声をかけながらフットペダルを踏み込んだ。バーの先を歯に当てると、甲高い音を立てて水飛沫が散り、色づいていたエナメル質が取り除かれる。
「沁みないですか?」
10秒経ったので手を止めて声をかけると、固く閉じられていた目が開いてこちらに視線が向けられた。
「大丈夫です」
「じゃあもう10秒やってみましょう」
削りすぎないよう少しずつバーを当てては離し、休憩も挟みながら切削を続けていく。最初は溝に沿うように削り始めたが、感染が広がっている部分を取り除いていくと右下7番の咬合面の中心には丸い穴が空いている状態になった。
大方取り切れてきたが、もう少し深い部分が残っている。一旦コントラを置き、沁みていないか今泉先生に尋ねた。
「大丈夫です」と今まで通りの返答がきたが、その顔にはやや疲労が見える。
「ちょっと嫌な感じはしますよね」
「……想像していた以上に、そうですね」
今泉先生は眉を下げて右頬に手を当てた。
「少しひやっとする感じもありますし」
「ひやっと? 沁みてはいない……んですよね?」
さっきの「大丈夫です」を俺はそのように受け取ったが、違ったのだろうか。
今泉先生は頬に手を当てたまま、軽く首を傾げる。しばらく視線を宙にさまよわせた後、何かに気づいたような顔をして俺を見た。
「沁みているようです」
「……やっぱりそうですよね!? ひやっと、って」
「すみません。ずっと水が出ていたのでこんなものかと思って」
「いや全く謝る必要はないんですけど、それなら麻酔足しましょう」
シリンジに手を伸ばしたが、後ろから今泉先生が声をかけてくる。
「足さなくても我慢できますよ」
それが無理をしているような声ではないので心配になった。痛覚に鈍いし、我慢するのが当たり前になっているし、危なっかしい。
振り返り、しっかりと目を見て言う。
「我慢しなくていいです」
この治療に限ったことではない、そんな思いも込めた。
しかし、麻酔に対して恐怖心がある様子だったことを思い出す。
「麻酔のほうが嫌なら無理にとは言いませんけど……」
「嫌ではありません。それなら、お言葉に甘えてお願いします」
麻酔を足し、効くまで十分時間を置いてから切削を再開した。
「つらくないですか?」
深い場所にバーの先を当てながら尋ねる。少し手を止めると、今泉先生は頷いた。麻酔が奏功しているようで安心する。
「あと少しなので頑張りましょう。無理はしなくていいので」
「はい」
「じゃあもう一回大きく開けてください」
ミラーで頬粘膜を圧排しながらコントラを口の中に入れる。治療の最初と比べると楽に口を開けてもらえているように感じた。