「わたし仕事始めに会社休んだことあるんですよ。元日から風邪ひいて、長引いちゃって」
「同僚にもいましたよ、そんな子」
「歯医者さんもですか。意外とあるあるなんですかねぇ」
「お仕事頑張ってると、休みに気が抜けるのかもしれないですね」
患者さんとそんな話をしたのが12月28日。
「でも、辰野先生はそんなことなさそうですよね」
そう言って患者さんは帰って行った。
「風邪ひかなそう」とはよく言われる。実際ひかないよう気をつけているし、もちろん体調不良で仕事を休んだこともない。
今年も気を抜くことなく、無事に年を越した——と思っていた。
「いっ……たぁぁ……」
1月5日の早朝、尋常じゃない歯の痛みで目が覚めた。最初は夢かと思い、頬を押さえて布団の中で丸くなっていたがいつまで経っても痛みは消えない。むしろズキンズキンと強くなっていく。
もしかして、少し前から沁みていた右下の歯か……?
気になってはいたが、忙しさにかまけて治療を受けずにいた。まだ大丈夫だろうという考えもあった。治療を受けるのが憂鬱だという気持ちも。
早めに治療を受けることも、体調管理の一環だ。わかっていたはずなのに。
ひとしきり後悔した後、この痛みをなんとかしたいと、それしか考えられなくなった。
それに明日から仕事だ、今日中に治療を受けなければ。
まずは休日診療が開くまで持ち堪えようと、布団から這い出して傍の棚に置いてある薬箱に手を伸ばした。
***
数時間後。最低限の身支度を整え、なんとか歯磨きも済ませ、財布とスマホだけ持って家を出る。休日診療を行っている口腔保健センターまで車で向かった。
待合室には俺の他に患者はいなかった。ただ、奥からはタービンの音や器具を置く音が聞こえてくる。
「辰野さん、中へどうぞ」
問診票を書いて間もなく、診療室へ通された。ユニットが3台、簡易的なパーテーションで仕切られ並んでいる。手前のユニットでは女性が治療を受けており、時々辛そうな声が聞こえる。それから目を逸らして歩き、案内された隣のユニットに腰掛けた。
助手にエプロンをつけられるとすぐ、歯科医師がやってきた。
「ミナミです。よろしくお願いします」
彼は微笑んだが、睨まれているような感覚だった。マスクの色と大差ないように感じるくらい白い肌と切れ長の目が何かを連想させる。この正月によく見たような……ああ、ヘビか。
「右下6番が痛むということですが、以前から症状は?」
「そこまでは……」
受付で保険証を出したので俺が歯科医師だということは先生もわかっているかもしれないと思うと、正直に言えなかった。
「そうですか……。診てみましょう」
ユニットの背もたれが倒れ、ライトがつく。
「開けてください」
口を開けると、ミラーが入ってきて右頬の内側を広げられた。先生が俺の口の中を覗き込む。助手がライトの位置を微調整する。診察を受けるのなんていつぶりだろう。こんなにも緊張するものだっただろうか。
「欠けてますね」
「え……」
歯磨きをするときも鏡は見なかったので、どんな状態か自分でも把握していない。
「気づきませんでした? ちょっと失礼」
探針が近づいてくる。全身に力を入れて身構えた。
「あ……! あ、あっ」
齲窩と歯の欠片の間に探針が差し込まれているのが分かる。ぐり、と力を入れられたかと思うとそのまま揺すられ、しかし探針はすぐに出て行った。
「取れないな」
でかい声を出してしまった……。
顔が熱くなるが、先生は気にした様子もない。
「削って取るので、麻酔しますね」
とすぐに頬が指で引っ張られ、口元に麻酔のシリンジを持った手が近づく。針が刺さると、微かな痛みを感じた。
その後も悲惨なものだった。麻酔はあまり効かず、何度か口を閉じそうになったり声を出したりしてしまった。
「先生、明日からお仕事では? しっかり痛いところ取りましょうね」
抜髄をする間、担当医からそんな恥ずかしいことを言われたのはよく覚えている。
やっぱり俺が歯科医だとわかっていたようだが、治療中に先生と呼ぶのはナシだろ。心身ともに疲労困憊しながら帰宅する道中、担当医に八つ当たりした。
***
翌日、歯の痛みは治まり無事に出勤できた。さっそく院長に新年の挨拶をしに行くと、その隣には一人、見慣れない人物が立っている。今年から新しい歯科医師が入ってくると聞いていた。彼だろう。
「辰野先生、紹介するよ。こちら、ミナミ先生だ」
どこかで聞いた名前。改めて顔をまじまじと見つめると、鋭い目に睨み返されたように感じて背筋が冷たくなった。まさか。思わず視線を下げると、新しい名札が目に入る。
「巳波……先生」
恐る恐る目を上げる。
「はい。よろしくお願いします」
微笑み方が昨日と同じだ。自分の顔が引き攣るのを感じた。
「それじゃあ、あと詳しいことは辰野先生に聞いてくれ。任せたよ」
院長は俺と巳波先生の肩を叩いて去っていってしまった。任せられても困る。二人きりにしないでくれ、と本当は叫びたかった。
「……よろしく、お願いします」
「いろいろ教えてくださいね、辰野先生」
「はい……」
この人は、気づいてるんだよな……? それなら昨日の礼を言うべきか。しかし気づいていないならむざむざ墓穴を掘るようなまねはしたくない。慎重に見極めて……と巳波先生の出方を窺っていると、白く冷たい指先が俺の右頬に触れた。
「お礼と言ってはなんですが、困ったときは力になりますからね」
「は!?」
驚いて思わず飛び退く。巳波先生が眉根を寄せ、芝居がかった仕草で顎に手を当てた。
「そんなに怖がらなくても。かかりつけ、ないんでしょう?」
「は……一回診たくらいで、何言って」
「一回診ればわかりましたよ。今後の治療、どうするおつもりで? まさか仮封で放置なんて、そんな恐ぁいことしませんよね」
「と、当然だ」
「そうですよね」
笑った巳波先生の唇の間から尖った八重歯が覗いた。