その日、診療が終わりカルテを書いていた皓大のもとに梅村が近づいてきた。
「坂梨先生、ちょっといい?」
「ん、なに?」
「この指示書なんだけど」
梅村は坂梨が提出した技工指示書を見せ、書き漏れを指摘する。
「ごめん。すぐ書く」
書き終えたカルテを脇に置き、皓大が技工指示書を受け取った。
「珍しいね。坂梨先生が書き漏れなんて」
「これ書いてないのはやばいわ。本当にごめん」
「何があったの」
皓大のペンを持つ手が止まる。
「匡一さんと喧嘩した?」
「あー……ね。喧嘩、ではないと思うけど」
匡一との関係がぎくしゃくしているのは事実だ。
つくづく自分の鈍さが憎い。匡一はかかりつけの歯科医院を受診したとばかり思っていた。しかし考えるに、まだ受診していなかったのではないか。皓大がようやくその可能性に思い当たったのは、滅菌室で話をした日、自宅に帰った後だった。
きっと今も受診できていない。歯が痛そうにしている場面は何度も見かけた。声をかけたいし、できるなら自分が助けたい。でも「診られたくない」と言われたうえに避けられては踏み込めなかった。
「匡一さん、歯痛そうだよね」
「ん」
ペンを動かし始めた皓大に梅村が尋ねる。
「なんで助けようとしないの。喧嘩なんかしてる場合じゃないだろ?」
「助けたいよ、俺だって」
「じゃあ……!」
「でもね、助けたいのは俺のエゴだから。匡ちゃんは望んでない」
他の歯科医院を受診する意志はあるのだろうから、それを尊重したい。匡一の嫌がることはしたくない。
ペンを置き、皓大は梅村に技工指示書を返す。
「よろしくね」
梅村が指示書を受け取ると、皓大は脇に置いてあったカルテに手を伸ばした。
皓大が話を終わらせようとしていることに気づき、「待ってよ」と梅村は慌てて引き戻そうとする。
「望んでないって、それ匡一さんが言ったの?」
「うん。俺には診られたくないって」
梅村はまるで理解できないという顔をして皓大のほうへ身を乗り出した。
「それ、匡一さんの本心だと思ってる?」
「……嘘には聞こえなかったよ」
「きっと素直になれないこともあるよ。俺だったら、一回断られたくらいで諦めたりしない。……でも、俺には何もできないから」
梅村が縋るように皓大の腕を掴む。
「坂梨先生、匡一さんを助けて」
「でも、俺は」
はっきり拒絶された。「皓大には診られたくない」、あの声が何度も耳に蘇ってきて匡一を助けたい気持ちにブレーキをかける。
梅村はひどく表情を曇らせた。
「匡一さん、今朝もスタッフルームでうずくまってた」
「え……?」
皓大の顔色が変わった。
「俺が入っていったらごまかしてたけど、もう相当痛いんだと思う。匡一さんが一番信頼してる歯科医は坂梨先生だよ。坂梨先生がだめなら、他の人に見せられるわけない」
少しの間の後、皓大は梅村の腕をそっと外し、尋ねる。
「匡ちゃんはまだいる?」
「もう帰った。15分くらい前だったと思う」
「分かった。ありがと、教えてくれて」
皓大は慌ただしく立ち上がる。カルテを提出し、急いで退勤すると携帯を取り出した。