「きょーちゃん聞いてー。歯医者めっちゃ痛かった」
高校3年の頃、机に突っ伏しながらそう言った皓大のことを思い出す。
「なんかさ、神経抜くやつ? あれ初めてやったけどやばいよ」
そうなんだ、といかにも初めて聞いたような返事をしたけれど、その治療は匡一にも覚えがあった。あれをやったのか、大変だったな。そう皓大のことを案じるのと同時に、どす黒い感情が心の奥に生まれたのも自覚していた。——これで、俺と同じだ。
成績もサッカーも人望も何ひとつ勝てない相手。そんな皓大が自分と同じ弱味を見せたような気がした。
気づくべきだった。こうして友人に治療のことを大っぴらに話せている時点で、皓大が自分とは全く違うことに。そうすれば次の言葉にショックを受けることもなかった。
「でもさ、歯医者さんってかっこいいな」
「…………え?」
声が裏返った匡一を、皓大は不思議そうに見ていた。
「いや、なんで? なんで今の話からそうなるの」
あまりにも匡一の声が必死だったからだろう、皓大は机にのせていた頭を上げ、何度か瞬きをした。
「まぁ、治療は痛かったけど。おかげでもう歯は痛くないし、親父もさ……俺のこと思ってくれてたんだなっていうのが分かって」
“親父”というのは皓大とは血の繋がらない父親だ。皓大は幼少期に実父を亡くしており、中学進学と同時に母親が再婚。親父には複雑な感情を抱いている、と匡一に打ち明けたことがあった。その父親と、今回の治療がきっかけで和解できたらしい。
「俺も、歯医者さんになろうかな」
それから皓大が進路を定めるまでに時間はかからなかった。合格確実と言われていた難関大から父親の出身校である歯科大に志望校を変え、噂によると教師たちが嘆いていたらしいが、当の本人は夢ができて生き生きとしていた。
「皓大はいいね。ちゃんとなりたいものが見つかって」
いつかの昼休み、屋上で皓大と昼食をとりながら匡一はそうこぼした。
皓大は大抵2限目か3限目の後に早弁をして昼休みは購買のパンを食べていた。あの日もコロッケバーガーを頬張りながら、意外そうに匡一を見てきた。
「匡ちゃんもなりたいものあるんじゃないの? 1年の頃から志望校決まってるっしょ」
「あれは、自分のレベルに合ってそうな所を書いてるだけ」
「それもいいんじゃない? なりたいものはこれから見つけていけば」
「どうかな。見つからないままなんとなく生きていく気がする」
「なんとなくでも、生きてくってすごいことだよ」
皓大は正しい。でもそんな台詞をすんなり口にできるのは皓大がなんとなく生きていない証拠だ。
「……なんとなくは嫌だ」
皓大みたいになりたい。そんな匡一の本心を知るはずはないが、皓大は真剣な表情で黙り込んだ。
匡一も無言で弁当を口に運ぶ。居心地が悪くなってきた頃、皓大が彼にしてはとても控えめに話し始めた。
「匡ちゃんの可能性を広げるには、志望校変えないほうがいいと思う。でも、そういう道もあるかーくらいに考えてくれたらいいんだけど」
皓大が一度言葉を切り、匡一のほうに顔を向ける。
「俺と同じ大学に行く?」
「え?……歯医者にはならないよ、俺」
歯医者が苦手なのに無理だ。なりたいとも思わない。
皓大は頷いた。
「うん。歯医者さんじゃなくて、衛生士さんはどうかなって」
「衛生士さん?」
女性が就く仕事と思っていたので冗談かと思ってしまう。そう率直に皓大に伝えたが、彼は大真面目にそしていくらか熱っぽく答える。
「男の衛生士さんもいるよ。で、俺はこれから結構必要な仕事じゃないかなと思ってる」
「そう、なの?」
「うん。親父の受け売りなんだけどね、今までの歯医者さんって痛くなったら行くとこみたいなイメージだったんだって。それが最近は予防に重点を置くようになってきてて、そこで活躍するのって衛生士さんじゃん?」
「それはそうかもしれないけど……」
「メンテしてもらうなら同性のほうが気楽って人もいるだろうし、性別関係なく需要あると思うんだよね。特に匡ちゃんは優しくて聞き上手で頼りになるから、向いてると思う」
突然褒められた匡一は反応に困った。気弱だとか話し下手だといったコンプレックスさえも皓大にかかれば長所に言い換えられてしまう。褒められるべきは皓大のポジティブな見方だと思いながらも嫌な気持ちはしなかった。
「あとこれは俺のわがままなんだけど、匡ちゃんと仕事できたら嬉しい」
「え?」
「歯医者さんと衛生士さん……他にもいろんな人が関わってるけど、チームメイトみたいなもんじゃん? 俺、匡ちゃんとは部活でずっと同じチームだったから、引退してから寂しくてさ。また一緒に何かやれたら嬉しい」
劣等感はある。しかし同時にどうしようもなく皓大に惹かれていた。だから彼が匡一を認めて誘ってくれたことが嬉しかった。
「同じ職場に就職すれば、一緒にできるかもね」
「え! 匡ちゃん衛生士さんになるの?」
「まだ考えてるだけだよ」
そう言ったときには半分以上心が決まっていたように思う。
その後、匡一は皓大とは別の大学に進み、卒業後は地元で歯科衛生士として働き始めた。
皓大とは住む場所も違うし、帰ってきても彼は実家を継ぐだろう。同じ職場で勤務することはこの先もきっとない。働き始めた当初はそう考えて安堵なのか寂しさなのかよく分からない感情を抱いていた。