ハレーション - 10/14

 皓大が匡一を連れて行ったのは共通の勤務先ではなく、皓大の父親が開業している歯科医院だった。
 初めにレントゲンを撮った後、最近増設したという新しいユニットに匡一を座らせ、私服のままマスクとグローブをつけた皓大が準備を始めた。
 ブラケットテーブルの上に基本セットや浸潤麻酔が並び、胸元にエプロンがつけられ、皓大が術者用のスツールに腰掛ける。一つ一つ準備が整っていく度に匡一の緊張は高まっていった。
「ひとまず診せてね。倒すよ」
 仰向けになるとライトが口元を照らし、ミラーを取る音がした。
「左上の6番だよね?」
「うん」
「もう少し頭下げるよ」
 ヘッドレストがもう一段階下げられ、匡一は肘掛けをぎゅっと掴んだ。
「開けてね」
 皓大は匡一の口内にミラーを入れ、覗き込むようにして患歯に視線を注ぐ。左上6番の咬合面にはぽっかりと茶色い穴が空き、溶けかけた象牙質がむき出しになっていた。
「……ん、麻酔しよっか。アレルギーとか今まで麻酔で気分悪くなったりはない?」
「ないよ」
「じゃあちょっとチクッとするよ」
 皓大が左手の指で唇を引っぱりながら顔を固定する。腫れた歯肉に針が刺さり、独特の痛みと共に麻酔薬が注入されていくと匡一の眉間に皺が寄った。
 チェアが起こされ、うがいを済ませると匡一は頬に手を当てた。口の左側が痺れ始め、脈打つような痛みも消えている。ひとまずは麻酔が効いたようでよかったと安堵していると、皓大が立ち上がってブラケットテーブルを回り込み、チェアの横にしゃがんだ。
「あのね、匡ちゃん。痛いのは左上の6番で間違いないと思う。抜髄したら痛みが治まるから頑張ろうね」
 匡一は頷くのが精一杯だった。
 抜髄は高校生のとき以来2度目だ。思い出したくもなかったし、ましてやもう一度経験するなんて絶対に嫌だと思っていたのに、どうしてもっと早く皓大に治療を頼めなかったのだろう。
「治療始める前にできれば教えてほしいんだけど。俺に診られたくなかったのって、なんで?」
「……どうしてそんなこと訊くの」
 匡一も改めて考えていたが、名状しがたく、また、当人に言うのは憚られるような感情だ。時間を稼ぐように質問で返す。
 対して皓大はいつもと変わらずまっすぐな答えを返してきた。
「匡ちゃんに嫌な思いさせたくないから。俺の悪いところを教えて? 気をつけるよ」
 誠実に問われ、はぐらかすことはできなかった。言葉を選びながら匡一は答えた。
「……皓大が悪いとかじゃないよ。俺が、皓大と違いすぎるのが嫌なだけ」
「違う? それがどうして嫌なの?」
「ただ違うんじゃなくて……皓大みたいになりたいのに、なれない。だから情けない所を皓大に見られるのが恥ずかしかった」
 本当は「劣等感を抱いている相手に見られたら余計みじめになりそうだった」と表現したほうが正確だったが、言わなかった。自己と他人を比較しない皓大に知ってほしい感情ではない。
 皓大が「俺みたいになりたいの?」と目を丸くする。
「俺、匡ちゃんが匡ちゃんだから好きなんだけど」
「またそんな……」
 そうやって恥ずかしげもなく好意を伝えられるところも違う。
「こんな俺のどこがいいの。歯だってこんなんで……皓大はちゃんとケアできてるのに」
「最近はね。でも匡ちゃんもこれからそうなるんだよ?」
「なに勝手に」
「そうならないの?」
 皓大が真顔で匡一を見上げる。
「ざっと見た感じ、匡ちゃんだってセルフケアしてるんだと思う。でも虫歯になっちゃったときになかなか治せないんじゃない?」
「……そうだよ」
「だったら俺は匡ちゃんが定期検診受けてくれるように全力で頑張るよ」
 本気になった皓大は止められない。皓大の言う通り、匡一も定期検診を受けるようになるのだろうということは想像に難くない。匡一は肩を竦めた。
「逃げられる気がしないね」
 逃がさないよ?と皓大が不敵に笑う。
「俺も散々痛い目見たり親父が助けてくれたりして今こうなってるわけでさ。匡ちゃんがいるからメンテも頼みやすくなったし。全然俺がすごいわけじゃないんだよ」
「そんなことないよ」
「いやマジで。……むしろ俺は、匡ちゃんのことすごいなって思ってたんだよ」
 過去形であることに気づいてしまう。聞かなかったふりをしたかったのに、訊かずにはいられなかった。
「……思ってた?」
「うん。でもそう思うのはもうやめる」
 心臓が締め付けられたような心地がした。皓大を失望させたのだと思った。何も反応できない。
 でも、続く皓大の言葉は匡一の考えていたようなものではなかった。
「匡ちゃんなら大丈夫って思い込んで、辛い思いしてるのに気づけなかったから。だから、これからは匡ちゃんのことちゃんと見るようにする」
「……がっかりするよ」
「しないよ。知らない一面があっても、それも匡ちゃんなんだから」
「そんなに受け入れられるものかな……」
 でも皓大に確信を持って言われると、信じてもいいのかなと思ってしまう。
「俺あんま嫌いな人いないし大丈夫だと思うよ? 匡ちゃんにも、俺のだめなとこも見てほしい。それで俺がやばそうなときは助けてほしい」
 結局、皓大のこういうところが一番眩しいのかもしれない、と匡一は気づく。自分のことも他人のことも、欠点すら受け入れてありのままを愛せるところ。
 できるか分からないが真似してみようか。劣等感はきっと簡単には消えない。それでも、皓大はいつも少し前に進ませてくれる。
 匡一は皓大にまっすぐ顔を向けた。
「分かった。やっぱり皓大には敵わないな」
「そういうのやめてって」
「ごめん。でも、敵わないからって見られたくないとはもう思ってないよ。治療お願いね」
 皓大の表情がぱっと明るくなった。
「一緒に頑張ろうね、匡ちゃん」
 拳が突き出される。普通こんなときにしないでしょ、と苦笑しながらも匡一は自分の拳を軽くぶつけた。