その日の診療後、着替えを済ませて帰ろうとスタッフルームを出ると、そこにはちょうど雪野が立っていた。
「大平さん手伝って」
「え、は?」
昼休みに疲れたと言って豊間に揉ませていた右腕。その腕でむんずと僕の手首を掴んだかと思うと、強く引っ張ってどこかへ連れていこうとする。
「なんだよ雪野」
抵抗すると肩がもげそうになるので早足でついていく。いちおう年上なんだけど僕。雪野は無言のまま、診療室へ入っていくと一番手前のユニットで僕の手を離した。
「どういうつもりだよ、雪野……」
思わず言葉が途切れる。ユニットの背もたれ越しに顔を出した人物がいたからだ。
「……と、豊間?」
「すみません、大平さん」
「え、何。説明してどっちか」
胸元にエプロンをつけられている豊間は決まり悪そうに僕と雪野の顔を見上げる。
雪野はそんな豊間に構う素振りも見せず、スツールに腰を下ろした。ふと横のブラケットテーブルが視界に入る。診療が終わり先ほど綺麗に片付けたはずのそこには、抜髄に使う器具が並んでいた。
……うん、状況はだいたい理解した。
案の定、雪野が端的に説明する。
「アホがおっきな虫歯隠してたから治療するの手伝ってください」
お前ね、全方位に向かってもう少し言い方あるでしょ、と言いたかったが話が進まず余計に面倒くさくなりそうなのでやめた。
代わりに尋ねる。
「そうなの、豊間?」
「……そうです……けど……な、なあ雪野、急に大平さんに頼んだら悪いよ。それに雪野も今日疲れてっ、ん!?」
まだ話している豊間の両頬を雪野が片手で挟むようにして掴んだ。
「ナメてるの?」
「な、」
「俺まだ余裕だけど?」
両頬を潰されたまま豊間が困惑の表情を見せた。僕もたぶん同じような顔になっていると思う。
「雪野、昼休みは疲れたって言ってたよな」
「あれは豊間に腕揉んでほしかっただけだもん」
「お、おう……」
揉んでくれた人の顔潰しながら「だもん」じゃねぇよ。
「ひとまず雪野、手離せ、な?」
だいぶ苦しそうになってきていた豊間の頬から雪野の手を剥がすと、豊間が大きく息を吐いた。
「大丈夫か豊間」
「大丈夫です。すみません本当に……」
謝りながらも、痛え、とつい零れたような小さな声で言って豊間は右頬に手を当てる。虫歯は右下だろうか、あんなに強く頬を押さえられたら余計に痛むだろう。
「まあ特に予定もないし手伝うのはいいけど、雪野はちょっと落ち着け。そんな状態で治療されると心配だから」
雪野が頬を膨らませた。
「だって豊間が逃げようとするから」
「俺は逃げようとしたわけじゃなくて……!」
「はいはい、ストップ」
ぎろりと完全に怒った目で雪野が豊間を睨んだので、また腕力に訴えられる前に慌てて割って入った。
「もう一度言うけど雪野は落ち着きなさい。豊間もおとなしく治療受けられるな?」
そう尋ねると、途端に豊間は体を縮こまらせ、俯く。その様子から本当は逃げたかったんだなと察しがついた。
「なるべく……努力します……」
「うん、なるべくじゃなくて努力してくれ」
「いやでも俺うるさいかもしれない……泣いても大丈夫ですか……どこまでOK? 暴れなければセーフ?」
うわーと声をあげながら豊間が両手で顔を覆う。そんな豊間に向かって雪野はばっさり一言。
「すでにうるさいから好きにすれば?」
いろいろと間違っているとしか思えない回答だったが、豊間は顔を覆っている指の隙間を少し開けて雪野を見上げた。すでに目が潤んでいる気がする。
「まじで好きにしていいの」
よくないに決まってるだろ。冷静になれそこの歯科医師2名。
「口の中に器具入ってる状態で暴れたら怪我しそうだけどね。止めてくれるんじゃない? 大平さんが」
「おい?」
「もっかい手洗ってくる」
雪野はそう言ってスツールから立ち上がると、ふらっと診療室を出ていった。