姉弟 - 3/3

 翌日。言われた通り20時半ごろに夕椰の働く歯科医院へ行くと、受付に話は通っていたようでしばらく待合室で待つように言われた。隅に置いてあるラックから愛読しているファッション誌を取ってソファに座る。
 この雑誌は毎号発売日に買っていて今月号ももちろん読了しているけど、何度でも読みたい。特にこのページ。「読者モデルの通勤コーデ特集」のページを開く。ぱっと目に飛び込んでくる大きなスナップ。我らが妹、早瀬らんだ。会社員として働くかたわら、20〜30代OL向けファッション誌の読者モデルをしている。

(今日も可愛い……)

 こなれ感のあるローポニー、ジレとワイドパンツのセットアップ、夏らしいほんのりオレンジ系メイク。完璧。10000点。
 しばらく藍ちゃんを見つめていると、雑誌がひょいと取り上げられた。

「あちょっと!」
「お待たせ」

 涼しい顔で見下ろしてきたのは、スクラブ姿のあまり可愛くない弟。

「藍ちゃん補給してたのに」
「家で散々読んでるでしょ」
「歯医者さんの前に可愛い藍ちゃん見てエネルギー補給しないと……」
「藍が聞いたら引くよ?」
「だからここで言ってるんでしょ」
「はいはい。行くよ」

 夕椰が雑誌をラックに片付け、診察室へ歩き出したので渋々後ろをついていく。
 院内にはスタッフがまばらに残っているもののほとんど片付けが終わっているみたいだった。そんな中、まだ道具の出してある診察室に夕椰が入っていく。

「座って」

 カバンを置き、ジャケットをハンガーにかけて診察台に座ると、後ろからエプロンがつけられた。

「久しぶりだし検診もしようかな。倒すよ」

 倒れていく診察台の上で夕椰にバレないように深呼吸する。
 何度か検診をしようと言われていたのに前回診てもらってから1年近く経ってしまった。検診結果があまり良くない予想はしている。

「先に痛いところ診よっか」

 ライトの位置が調整され、夕椰がミラーを私の唇に当てる。

「開けて」

 夕椰に診てもらうのは初めてじゃないけど、いつになっても慣れない。マスクをつけて見下ろしてくる姿はいつもの弟とは違って見えて落ち着かない。身内に見せる恥ずかしさもある。それでも夕椰に頼むのは一番信頼できるからだ。
 口を開けると、ミラーを右上に向けて夕椰が口の中を覗き込む。

「インレー取れかかってんね。ちょっと触るよ?」

 器具を取る音がして、口元に近づいてくる。思わず目を閉じるとすぐ、詰め物と歯の隙間にくいっと器具が入れられた感触があって痛みが走った。

「ん……」
「取れた」
 
 ピンセットで詰め物をつまみ出し、夕椰が再び右上にじっと視線を向ける。

「結構やられてるね」
「……ほんなに?」
「まぁ神経までは行ってないと思うけど。しーっかり治療しないとね」

 なんだかたくさん削られそうな言い方。
 ミラーを抜いて記録をつけているらしい夕椰を見ながらぼやく。

「嫌になってきた」
「ここまで来て嫌とか言われてもねぇ」

 はい続きやるよ、ミラーが近づけられた。

「6番は◯、5番も◯、4番から反対の1番まではいいね。で2番と3番は……ここさぁ」

 え、そこは前回治療した所でしょ?
 また何かあるの、と不安になっていると夕椰が一言。

「やっぱこのレ充上手くできたわ」
「は?」
「ここの詰め物」
「意味は分かってる」

 夕椰が説明してくれるから聞き慣れない言葉も意味が分かるようになってきた。だから問題はそこじゃなくて。

「いきなり自画自賛するのやめて?」
「えー? 唯蕗が『綺麗に治してお願い』って必死だったから頑張ったのにさ」
「感謝してるけど、急に手止められると虫歯かなって思うのこっちは!」
「あ、ごめん」

 悪びれる様子もなく謝り、夕椰はまたミラーを動かし始めた。
 夕椰は普段「優しい歯医者さん」らしい。それでいいと思う。素で仕事をしていたらたぶん今頃クビだ。
 でも初めて治療をしてもらったときにその「優しい歯医者さん」風の対応をされて寒気がしたので、私相手にはいつも通り接してと頼んだ。そのせいで辛辣な指摘をするわ今みたいに自画自賛するわ好き放題してくれるけど、変に気を遣われるよりずっといい。
 
「4番と5番は大丈夫、6番はCOかな……7番は◯。左下は……ちょっと風かけるよ」

 シュッ、と一番奥の歯に風が吹きかけられた。

「唯蕗、ここ小さい虫歯になってる」
「え……」
「様子見でもよさそうだけど……唯蕗、ほっとくと痛くなるまで治療しない気がするなぁ」
「する」
「あ、今日治療する?」
「違う! 早めに治療するから今日はなしで」
「え〜どうしよ」

 曖昧な返事のまま、ミラーは動かされていく。

「6番は◯、5番から……反対の4番までは大丈夫。5番はCO、6番は◯、7番は」

 やっと終わるかと思っていたら最後の歯で夕椰は手を止めた。

「触るよ? ちょっと痛いかも」

 歯の溝に器具の先が触れ、つぷ、と入り込んできた感じがした。

「いは……っ」 
「穴空いてる。右上だけじゃなくて下も沁みてたのかもね」

 ここも治療するよ、と言って夕椰が器具を置く。

「うがいどーぞ。終わったらレントゲン撮りにいくよ」

 診察台が起こされたので、私は右頬を押さえながらコップに手を伸ばした。

 ***

「唯蕗、最近なんかあった?」

 レントゲンを撮った後、治療の準備をしながら夕椰が尋ねる。

「なんかって」
「前よりだいぶ状態が悪いからさ。心当たりある?」

 虫歯は検診で見つかった通り3本。治療が決まっている2本は神経までは達していないものの深いらしい。初期虫歯も2本ある。
 夕椰の口調はいつもと大して変わらないけど私に向けられた目は全く笑っていなかった。

「……仕事が忙しかったのと、今年異動してきた子がよくお菓子くれるから、間食が習慣になってたかも」
「それだね。甘いものよく食べてんだろうなって歯してる」
「嫌な言い方」
「でも本当だから。なるべく間食は控えて、食べたら歯磨きできなくてもうがいくらいはすること。油断してたらまじで歯抜かないといけなくなるよ?」
「わ、分かったから……」
「分かったかどうか次の検診で確認するからね?」

 夕椰の目が本気だ。次はあまり間が開かないうちに強引にでも検診を受けさせられそうな気がする。私はこくこくと頷いた。

「で、治療だけど。今日は右上7番をやって、次は右下7番と……左下はどうしようかな」
「様子見で……」
「本当に大丈夫?」
「か、間食に気をつけて、ちゃんと検診にも来るから……というか、どんな手を使ってでも検診受けさせるつもりでしょ?」

 夕椰はなにも言わずにっこりと笑みを浮かべた。

「その顔、腹立つ〜……」
「じゃあ左下7番は経過観察ってことで。さ、治療計画も立ったことだし今日の分始めるよ」

 けらけら笑いながら夕椰が診察台を倒し、ライトをつける。
 でも両手に器具を持って見下ろしてきたときにはもう、ふざけた雰囲気は一切纏っていなかった。

「表面麻酔からするよ」

 ミラーで頬と歯茎の間を広げ、そこに薬をつけた綿が置かれた。
 夕椰に治療してもらうまで麻酔は痛いものだと思っていたけど、最近は安心して任せられる。今日も、表面麻酔、注射と痛みなく済ませてくれた。

「削ってくから、痛いときは左手挙げて」

 バキュームとタービンが口の中に入ってきた。目を閉じて、ゆっくり呼吸する。そうすれば少しは怖くないと夕椰が言っていたから、私も治療のときは真似している。

「大丈夫そう?」
「ん」

 キュイキュイと響いてくる音と振動は不快だけど、痛くはない。
 あまり気を遣うなと言ってあるけど、毎回、痛みを感じていないか必ず訊かれる。器具を替えるタイミングで長めに休憩もしてくれる。
 そうして少しずつ治療は進められていった。

「まだ終わらないの」

 何度目かの休憩で尋ねる。機械の先を付け替えながら、もう少し、と夕椰が答えた。
 たくさん削られそうとは思っていたけど、いつまで続くんだろうと不安になってきた。そろそろ痛くなりそうな気もする。
 次に口を開けるよう言われた時、無意識のうちに口が小さくなっていたみたいで、夕椰に指で口の端を引っぱられた。

「疲れてきた?」
「う……ううん」
「そう? なんか口開けるの嫌そうだけど」
「大丈夫」
「じゃあ続けるよ」

 また、嫌な音と振動。
 それから思っていた通り痛みも出始めた。エプロンの下でブラウスをきゅっと掴む。それに気づいたのか、すかさず「唯蕗、あと10秒くらいだよ」と声をかけられた。
 
「……よし、削るの終わり。虫歯取り切れたか確認するよ」

 虫歯を染め出す薬が塗られて、洗い流される。

「んっ……」

 水がツキンと沁みて口を閉じそうになったのを指で阻止された。

「開けて。……ごめん、あと1ヶ所だけ」

 カリカリと器具で引っかかれる。

「んん」
「はい、今度こそ終わり。一旦起こすよ」

 器具を置く音がして、眩しかったライトが消える。起き上がっていく診察台の上で肩の力を抜いた。

 ***
 
 型取りと仮詰めをしてもらった後、次の予約を取るために受付に移動した。
 院内にはもう誰もおらず、待合室の照明は消されていた。

「ちょうど1週間後でいい?」
「うん」
「じゃあ最終枠で入れとくね。インレーセットと右下の治療、と。右下は1回で終わる予定だよ」

 話しながら夕椰が受付のパソコンに入力する。私もメモしておこうと鞄から手帳を出した。

「唯蕗って土曜は休みだっけ?」
「土曜? 来週の?」
「来週っていうか、普段」
「基本休みだけど」

 ちょうど1週間後なら水曜日のはずだ。夕椰の質問に首をかしげつつも答える。

「りょうかーい」

 機嫌良さげに夕椰がまたマウスを動かし始める。なんだか嫌な予感がして画面を覗き込もうとするけど、よく見えない。
 そうしているうちに夕椰はパソコンの操作を終え、私の前に手を出した。
 
「診察券貸して」
「……なんか企んでるでしょ?」

 診察券を渡すと夕椰はすぐそれを裏返し、記入を始めた。診察券の裏側は予約日を書く表になっている。
 夕椰の手元を覗き込めば、書かれていたのは来週の日付と、

「ちょっと待って9月って何?」

 予約した覚えのない3ヶ月後の日付。

「検診の予約」
「頼んでないんだけど!」
「えっ? ちゃんと検診来るって言ってたし土曜日は休みらしいからもう予約取っちゃったなぁ……」

 さっきパソコンに入力したのはそれか。
 やられた。口約束じゃなくてしっかり枠が取ってあるなら来ないわけにはいかない。

「日付変更する?」
「……ちなみにキャンセルは」
「キャンセルと同時に即左下の治療するけど?」

 それも嫌だ。勝手に予約された日付は今のところ特に予定はないし、おとなしく検診に来たほうがよさそう。

「分かった。予約はそのままで」
「お待ちしてます」

 診察券が返却される。それを受け取り、私は手帳に検診の予定を書き込んだ。