バレンタイン

「乾かすので沁みると思います」
 左下6番のインレーセットをするため、頬と歯茎の間にロールワッテを置きながらそう言うと、患者である都築つづきさんがうぅ、と小さく声を漏らした。
「結構沁みるんですよね……」
 気持ちは分かる。インレーが入るのはただでさえ憂鬱だというのに痛みまで与えられたらたまったものじゃない。
「ですが、乾かさないと詰め物の接着剤がしっかり付かないので、頑張りましょう」
 言い終わってから、先に共感を表すべきだったかと後悔しかけたが、都築さんは頷いて口を開けた。
 スリーウェイシリンジを手に取り、窩洞にエアーを吹きかける。
「いっ……」
「すみません、もう一回」
 気持ちが分かるからといって妥協はできない。小さくなった口をもう一度開けてもらおうと、唇に指をかけた。
 
 ***

「痛みはありませんか」
「大丈夫です」
 ユニットを起こす頃には沁みる感覚も治まったのか、都築さんは安堵した様子で答えた。
「お疲れ様でした。次は3ヶ月後に来てください」
「はい。……あの、柊崎くきざき先生」
 都築さんが声を潜める。
「先週お話しした、同僚のことなんですが」
「……ええ」
 返答までにやや時間を要したのは、先週都築さんから聞いた内容を忘れていたからではない。この後どんな話が飛び出すのだろうかと少し身構えてしまったからだ。
 なぜなら、その同僚というのは都築さんの意中の相手。同僚にまつわる話のジャンルは、間違いなく俺の専門から最も離れているであろう、恋愛だ。先週も都築さんの話への受け答えにはだいぶ苦心した。
「チョコをもらいました」
「……そうですか」
 今日がバレンタインだということはさすがに俺も覚えている。俺も某同僚からキシリトール100%チョコを1粒もらった。義理チョコですらない単なる悪ふざけだろう。だが突き返すのもなんだか勿体なく、今もスクラブの胸ポケットに個包装が入っている。
 都築さんのもらったチョコは何チョコなのだろうか。
「女性社員たちから全員に配られたチョコもあったんですが、それとは別に個人的にもくれて」
 本命のようだ。口元を緩ませ、小さい声ながら浮ついた口調で話す都築さんからは幸福感が滲み出ていた。
 おめでとうございますと伝えたいが、ここは歯科医としてチョコはほどほどにという話もするべきだろうか、いやそんなことを言うのはあまりにも無粋だろうか、などと悩んでいるうちに都築さんの話は進んでいった。
「これって、脈ありだと思っていいんですよね」
「恐らく……」
 何しろ俺には経験がない。改めて問われると自信がなくなってくる。
「ホワイトデーにお返しと一緒に告白しても大丈夫だと思いますか?」
「ど、どうなんでしょうか」
 告白していいのかどうかも告白のタイミングも、なにもかも全く分からない。某同僚もとい隣の診察室にいる経験豊富な歯科医を呼んできたい気持ちだ。
 そういえば彼は今年も誰かからチョコをもらったのだろうか。ふとそんなことが気になってしまった。