普段のお仕事 - 2/8

 三面を壁で囲まれた、誰もいない診察室。隣の部屋からは大嫌いな歯を削る音が聞こえてくる。一花はふう、と息を吐いた。さっきから何度か深呼吸しているがいっこうに効き目はない。エプロンをかけられた上から分かるほど心臓が強く脈打っているのが分かる。
 学校の歯科検診で去年に続いて今年も指摘されていた虫歯が痛み始めたのは1ヶ月ほど前のことだった。症状もなかったので歯医者が苦手な一花はずっと放置してしまっていたのだが、急に沁みるようになったのだ。
 そんな状態を仲の良い従兄弟に知られ、自分も通っているからと紹介されたのがこの歯科医院だ。
 それなら少しは安心かもしれないと学校帰りに電車に乗り、足を踏み入れたこともなかったこのビルにやってきたのだが、歯医者は歯医者、待合室から緊張しっぱなしで、ずっと今のような状態だった。

(治療、痛いのかな……先生、どんな人だろう……)

 従兄弟を診てくれているのは口数は少ないけど優しい先生、とのことだったが、同じ先生とも限らない。
 ふう、とまた息を吐いたその時、後ろから足音が近づいてきた。

「こんばんはー」

 一花は恐る恐る振り向く。担当医は腰掛けるとすぐ、椅子を転がして一花の隣まで来て目線を合わせた。

「歯科医の早瀬といいます、よろしくね」

 あ……違う先生だ。たしか、従兄弟の担当はナントカザキ先生って言っていた気がする。

「あれ、どうかした? 俺の顔どっか変?」

 早瀬がマスクを顎まで下げる。一花は慌ててぺこりと頭を下げた。

「す、すみません。よろしく、お願いします」
「うん、よろしくお願いします。まずはお話するだけね、まあそう硬くなんないで」

 担当医を見ながら一花は内心戸惑っていた。なんだか、歯医者さんぽくない。
 外見も話し方も、ちょっと軽そうなお兄さん、という言葉が当てはまる。

「あっ、話なんかしないで早く痛いところなんとかして!って感じならすぐ治療に入るけど」
「え」
「そこまでは、痛くない?」
「はい、だいじょうぶ、です」

 何もしていなければ痛くないのは本当だし、治療もなるべく先延ばしにしたい。
 こくこくと頷くと早瀬が「よかった」と安心したように微笑む。意外と控えめで誠実そうな笑い方に一花は少し心を許し始めた。

「痛いのは右下だよね。どうかな、今、少しは痛みがある? それとも全然ない?」
「全然ないです」
「じゃあやっぱり何か食べたり飲んだりしたときが痛いかな?」
「はい……」
「そっか。ちなみに、氷水飲んだときと、チョコ食べたときと、コーンスープ飲んだときだと、痛いのはどれ?」

 細い指を一本ずつ立てながら早瀬が尋ねる。冷たいもの、甘いもの、温かいものって訊かないのちょっと変わってるかも、と思いながら一花は答えた。

「その中だと、氷水かな」
「氷水だけ?」
「はい」
「なるほどね。てか一花ちゃんコーンスープ好き?」

 問診票にボールペンで何か書きつけながら早瀬が尋ねる。

「えっと、好きです」
「おー、それならここのフロアの自販機に入ってるコーンスープ、まじ美味しいよ。おすすめ」
「へ……?」

 問診されてたはずなのになんでこんな話に……? 美味しいコーンスープはちょっと気になるけど。

「あ、どうでもいいよって顔してるねぇ」
「ううん、そういうわけじゃ」
「じゃあまた歯医者さんらしいこと訊こうかな。氷水が沁み出したのって最近? 例えばひと月前とか1年前とか……」

 そんなに放置して、と思われるんじゃないかと不安で問診票では回答できなかった質問。
 1年って、全然最近じゃないと思うけど。でもそんな選択肢を出されたおかげで一花は正直に答えることができた。

「痛くなったのはひと月前くらいです……あの、でも、学校の検診では去年から……言われてて」
「そっか。それまでは痛くなかったんだね」
「ごめんなさい……」
「別に俺に謝ることないでしょ。学校の検診で虫歯だって言われてたのはそこだけ?」
「えっと……」

 本当はもう一本、今年になって虫歯になりかけだと言われたところがあった。でも、なりかけだし言わないで済むならそうしたいと思っていると、早瀬がじっとこちらを見てくる。

「10本とか、20本ありましたとか言われても俺怒んないよ?」
「え? 10……20……? そ、そんなにないです」

 やっぱりちょっと選択肢がおかしい気がする。慌てて答えると早瀬が悪戯っぽく笑いながら尋ねる。

「そんなに、ってことはあと1本くらいはあるのかな?」
「……右上に、なりかけがあと1本あるって、言われました」
「了解。いろいろ教えてくれてありがとね」

 脱線したように見せかけて結局しっかり問診されてしまった。
 でも早瀬の軽妙な話し方のせいか、つい素直に答えてしまうし、いつの間にか心臓も落ち着いていた。
 ボールペンを置き、早瀬が一花に向き直る。

「じゃあ、ちょっと診てみてもいいかな?」