笑い話 - 9/12

「それじゃあ始めるか」

 ユニットに仰向けになっている早瀬に声をかける。麻酔が効いていることは今しがた確認したばかりだ。いつもなら短い返事が返ってきたり、頷いて返されたりなにかしらの反応があるが、今日はそれがなかった。

「早瀬」

 呼びかけてもこちらを見ようとしない。どこを見つめるでもなく、ふっと息を漏らしながら早瀬が苦笑した。

「……どうしよ、柊崎。めちゃくちゃ怖いね」

 全く深刻そうな言い方ではない。こいつをよく知らない頃なら、そんなわざとらしいことを言って本当は怖くないくせにと思っていただろう。言葉と、表情と、自分のスクラブをぎゅっと掴んでいる手が何もかもちぐはぐだ。

「優しくしてよ?」

 俺が黙っていると早瀬は冗談にしか聞こえない調子で言いながら俺を見上げてきた。
 分かった、と答えればいいのだろうか。しかし早瀬相手にそんなできもしないことを言うのはなんだか違う気がして俺は結局、いつかと同じような台詞を返した。

「期待するな」

 その瞬間、早瀬が可笑しそうに笑いだした。少し緊張が緩んだようなその様子に、たぶん早瀬以上に俺がほっとしていた。

「あーあ。柊崎ってやっぱ最高だよね」
「褒めてないだろ」
「ん、これは褒め言葉。まあ、患者さんに普段そういうこと言うのはやめてね」
「さすがに俺もそれくらいはわきまえてる」
「知ってる。頑張ってなんか言おうとしてるもんね」

 本人に伝えるつもりはないが、“頑張ってなんか言おう”とするようになったのは、早瀬の影響が大きい。話術に長けた彼のようにとはいかないが、少しでも患者を安心させることができる歯科医になれればと努力しているつもりだ。
 
「俺相手には別にいいよ。頑張んなくて」
「言われなくても。始めるからな」

 今度は早瀬が小さく頷いたのでバキュームに手を伸ばす。

「抜髄するかは分からないが、それ以外はいつもの治療だ。今までだってなんとかやってこれただろ」
「……ん」

 いつもの治療だなんてろくでもない台詞にどれくらい効果があったのかは分からない。
 しかし早瀬が目を瞑ったのを確認して、バキュームを大きく開かれた口の端に引っ掛け、ミラーとタービンを左上6番に向けてからフットペダルを踏み込んだ。
 特有の音が鳴り出すとぴくりと早瀬の肩が上がる。バーの先がアンレーに触れ、一層高い音に変わるとますます体が強ばっていった。

「早瀬、やりにくい。もう少し楽に口開けて」

 ミラーで頬の内側を押して声をかけると、早瀬は眉間に皺を寄せながら鼻で何度か深く息をする。力を抜こうとしているらしい。
 あまり口の開け方に変化は感じられなかったが、アンレーを小さく分割しながら取り除き、その下に詰めてあったセメントも削り取っていく。そうしていくうちに褐色の象牙質が現れた。
 タービンを止め、ちらりと早瀬の表情を確認すると、特に変化はない。今のところ痛みはなさそうだと踏んでエキスカで象牙質に触ってみる。軟らかさを感じた瞬間、小さな声が聞こえた。

「ん」
「痛いか?」

 手を止めて尋ねるが、んーん、と否定らしきものが返ってくる。
 先程は不快感から声を出してしまったのか。珍しいことだが、考えてみれば俺と違って早瀬は治療自体久しぶりだ。それも緊張を増幅させている一つの要因なのかもしれない。
 もう一度エキスカを動かし始めると、広範囲に渡っている軟化象牙質はボロボロと崩れていく。もうしばらくは大きく削ったほうがいいかもしれない。「もう少し削るぞ」と早瀬に声をかけ、俺はコントラを手に取った。