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(柊崎のやつ、本当に鈍いんだから)
大きな鏡張りの洗面台の前で歯磨きをしながら、俺は休憩室での会話を思い出していた。
隠したのは事実だけど、もっと早くバレると思っていたしそれでいいと思っていた。そうしたら適当にいつもの感じで検診を頼んで、なんとなく流れで治療してもらうつもりだった。きっかけさえあればきっとすんなり頼めたはずだ。それなのに、あいつときたら。
なんて責任転嫁してみたけど、全部自己責任なことくらい自分がよく分かっていた。
アンレーの入っている左上6番が沁み始めたのは、ちょうど柊崎に検診の話を持ちかけられた日の朝。起きていつものように冷たい水を飲んだ時にずきりと痛んだ。
左上6番のアンレーは高校時代に入れたものだから、年数的にそろそろ二次カリになっても不思議じゃない。ちょうど今度の検診でデンタルを撮ろうと柊崎と話していた箇所でもある。
恐る恐る沁みた歯を舌先で探ってみると、少し引っ掛かりがあるような感じがして。まあ、仕方ないか。そう自分を納得させようとしたのに、背筋がすっと冷たくなって手足の先からもみるみる温度がなくなっていくような感覚だった。
「……っ」
歯ブラシの先が問題の歯に触れ、声が漏れそうになる。舌で何度か触っているうちに歯質との間に隙間ができてしまっていた。磨き終えても痛みの余韻は残ったままで、治療への恐怖がますます募っていく。
ただの治療ならここまで怖がったりしない。でもこの歯はアンレーを入れた時点でかなり深くまで削ってあった。だから、たぶん今回は抜髄になると思う。早いうちに治療しないといけないのは分かっているし、それが最近の俺の主義でもあったけど、やっぱり抜髄となるとすぐには治療する決心ができなくて、柊崎に検診すら頼むことができなかった。
1回だけ抜髄をしたのは高校生の頃で、あのときの痛みは鮮明に覚えている。喉元過ぎればなんとかと言うけれど、あれが本当だったらよかったのに。忘れられればきっとこんなに怖くない。
口を濯いだ水が沁みる。鏡の中、青白い顔で左頬を押さえた自分と目が合った。
(これじゃさすがに柊崎も気づくか)
あまりにもひどい顔で笑い出したくなってしまう。顔だけじゃない、ここ1週間の自分がひどすぎて笑えてくる。
結局、俺も柊崎と一緒だ。治療が怖くて先延ばしにして。後悔ならいくらでもしてきたのにまた治療に二の足を踏んで。今だって逃げたいなんて思っている。
「情けな……」
弱々しい呟きが洗面台に落ちていった。