翌日、昼の少し遅い時間に休憩室へ入ると、机に突っ伏して寝息を立てる歯科医の姿があった。早瀬だ。珍しいなと思いながら二つ隣の席に腰掛けようと椅子を引いた瞬間、早瀬がはっと身を起こした。
「……なんだ、柊崎かあ」
ややおぼつかない口調でそう言うと、早瀬は全身から力が抜けたように元の体勢に戻った。
「眠そうだな」
弁当の蓋を開け、割り箸を袋から出す。まずはきんぴらに手をつけた。美味い。どこにも痛みを感じずにものを食べられるというのは幸せだ。
そんな俺の様子を見ながら、早瀬がぽそぽそと答えた。
「……昨日あんまり眠れなくて」
横に視線を向けると、幅の狭い二重瞼がゆっくりと瞬いた。たしかに、早瀬の顔は疲れているように見える。朝から少し顔色が悪いような気はしていたが、検診の日はいつも緊張した様子なのでそのせいかと思っていた。
だが、俺も検診は嫌いなのでこういう言い方には多少抵抗があるが、たかが検診で眠れないほど緊張するものだろうか。治療前でも痛みがなければ俺はいつも通り眠れる。さすがに抜髄となると——もっともこれまで抜髄したのは毎回自発痛で眠れなくなった後だった——分からないが。
「体調が悪ければ、今日は早く帰ったらどうだ? 検診はまたにすればいい」
せっかく気を利かせたというのに、返ってきたのは深いため息だった。
「柊崎、俺が歯医者嫌いなの分かってて言ってる?」
「それは分かってる」
「歯医者嫌いな人にそういうこと言うとすぐ逃げるよ? 柊崎もそうでしょ」
「俺はそんなこと」
否定しかけたが、数々の前科を思い出して言葉が止まった。悔しいが否定できない。またにすればいいなんて言われたらちょうど良い免罪符を得たと大手を振って帰ると思う。
黙り込んだ俺をほらね、と言わんばかりに一瞥し、早瀬は続けた。
「俺は、今日診てもらうって決めてきてんだから。あんま気持ちが揺らぎそうなこと言わないで」
「……分からなくはないが。少し大袈裟じゃないか?」
眠れなかった、と言われたときからあった違和感をとうとう口に出してしまった。やはり、いくらなんでも緊張しすぎじゃないか。こいつの治療も検診もしたことはあるがここまでではなかった。
まるでかなり進行した虫歯の治療前ばりに覚悟を決めてきたような言い方——
「え?」
次々とピースがはまっていく。ずっと感じていたいつもの早瀬との差、大袈裟なほど緊張している今の様子から来ていた違和感すらも埋められていく。突然、ここ1週間苦戦していたパズルがやっと完成したような気がした。
「お前、もしかして」
検診を待ってくれと言ったのも、それから避けられているようだったのも、元気がなかったのも、そうなら全部説明がつく。
箸を置いて早瀬の顔を見ようとすると、ちょうど彼が椅子から立ち上がった。
「くだらない悩みでしょ? 柊崎は考えすぎ」
気づいた?でもなく、バレた?でもなく、そんなことを例の困ったような笑顔で言い残し、早瀬が出入口のほうへ向かう。
休憩室の扉が閉まる音を聞きながら、あいつが初めて自分の歯のことを打ち明けたときもあんな顔をしていたことにようやく思い当たった。