笑い話 - 10/12

 削り進めていくうちにだいぶ手応えを感じるようになってきた。色も悪くないように見えるのでコントラを置いてまたエキスカに持ち替える。比較的軟らかい部分を取り除いてから齲蝕検知液を使ってみた。しかし期待に反して青く染まった部分は多い。
 まだか……。神経を残すことを考えるとそろそろ取りきれてほしいんだが、と思いつつ染色された象牙質を除去していると、ふいに早瀬が目を開けていることに気づいた。

「どうした」

 視線を口内に向けたまま尋ねても反応はない。だが、もう一度エキスカを動かした瞬間、びくりと口が閉じかけた。

「痛むのか」

 器具を口の外に出し、早瀬の顔を見て尋ねる。

「……ちょっと」

 ちょっと、と言うわりに目元は赤い。
 そういえば早瀬はいつだったか、こまめに休憩してほしいと言っていた。治療に没頭して忘れがちなのは俺の悪い所だ。

「少し休むか。椅子――」
「あ、椅子はいい」

 器具を置き、ユニットを起こすボタンを押そうとしていた手が止まる。不思議に思ったものの俺は無影灯だけ消すことにした。
「ありがと」と小さな声が聞こえて、早瀬が左手を目の上に当てる。指と手のひらが不自然に赤い。思わず目を逸らした先にあったのは、ずっと掴んでいたせいで酷い皺のできたスクラブだった。本当はだいぶ前から痛みがあったのだろう。

「すまん、気づかなかった」
「だいじょーぶ」
「痛みは教えてもらったほうがありがたいんだが」
「はは……だよね」

 早瀬が左手を口のほうへずらし、目を細めた。

「どうなの、今」
「そうだな。想定内だが、やっぱり近心側が深い」
「そっか」

 また悪い想像をしたのか、早瀬の目が少し潤んだ気がした。痛みを感じているときにこれはよくない。泣かれでもしたらどうしようかと内心焦ったが、結局早瀬は口元にあった手を下ろして穏やかに笑っただけだった。

「……もう休憩いいよ、お待たせ」
「言うほど待ってないが」
「ん、でももう大丈夫」

 本人が大丈夫と言っているのにそれを止める理由もない。無影灯を点け、ミラーとエキスカを構えて早瀬を見下ろすと、その手がまたスクラブを掴んだ。

「……手」
「手?」
「止めてほしいときは左手挙げてくれ。言うのを忘れていた」

 それで早瀬の手から力が抜けることはなかったものの、彼が頷いたのを見て口を開けるよう促した。
 ミラーに患歯を映し、まずは先程取り切れていない部分を除去していく。綺麗に取り終わったところでもう一度検知液を塗って洗浄し、削る。それを何度か繰り返すうちに染色される部分は少なくなっていった。指先に伝わってくる感触も硬い。

「ん……んぅ……」

 抑え切れなくなったように声が漏れ出したあたり、痛みがかなり強いのだろう。これで終わってくれよ、と思いながら検知液を塗り、洗い流した。

「っは……」
「開けて。ちょっと見せてくれ」

 力の入っていない口の端を指で引っ張りながらミラーを差し入れ、覗き込むようにして齲蝕の取り残しがないか確認する。

「……よし。取り切れたと思う」

 そう伝えると、不安そうな目が見上げてくる。

「露髄、してない?」
「してない。ただ、かなり神経には近いな。今日は覆髄剤を置いて、これで仮封して様子を見ようと思う。それでいいか?」
「うん」

 次の処置に移ろうとテーブルの上を軽く整頓しつつ早瀬が持ってきた器具や薬剤を確認すると、いくつか足りないものもある。

「準備してくるから待っててくれ。椅子、起こすか?」
「うん。……ありがと」

 くたりと力が抜けたように早瀬が目を閉じた。
 目の下には青クマができており、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。頑張ったな、と柄にもなく言ってやりたいような気持ちだった。