0

「早瀬、足りるのかそれで」

 昼休みの教室。隣の席に座った藤川の視線の先にあるのは、俺が両手で持っているメロンパン。さっき購買で買ってきたものだ。

「足りる」

 前歯で少しずつ齧るように食べていると、藤川は眉を顰めた。

「またどっか痛いのか」
「……左上? と右上も、かも。よく分かんない」
「お前なあ……5限は歯科健診だっていうのに」
「まあね。結果もらったら歯医者予約しよっかな」
「去年も同じこと言ってなかったか?」
「そうだっけ? あ、俺記録係だからさ、体育館で説明あるんだって。食べ終わったら行くね」

 今年から歯科健診の記録は保健委員がするらしい。じゃんけんで負けて仕方なくやってる保健委員だけど、初めてよかったと思った。もし自分が保健委員じゃなくて、クラスの誰かに記録を取られていたらと思うとぞっとする。
 やる前から分かってる。今年も虫歯だらけだ。
 いつからこんなふうになってしまったんだろう。昔から時々虫歯はできていたけど、ここまで酷くなったのはたしか、中3の頃に初めて歯の治療が痛いのを知ってからだ。

「話を逸らすな。……歯医者、去年から行ってないのか」
「行ったよ」
「本当か?」
「もー藤川しつこい。行ったってば」

 1回だけ行った。何本か虫歯を指摘されてひどい所から治すように勧められたけど、左上の、比較的手前のほうで見た目が気になる所を先に治してほしいと頼んだ。他も全部治すつもりだった。でも……。
 歯を削る機械の音が頭の中に響く。麻酔したんだったか。それもよく覚えていないけど、とにかく沁みているような感じがして怖くて、あれっきり歯医者は行っていない。
 急にお腹が重くなってきた。メロンパンは半分以上残っているのに、もう喉を通りそうにない。食べかけを袋に入れて机の横に置いてあるスポーツバッグにしまう。

「早瀬?」

 藤川がまた心配そうに見てくる。

「違うから。痛くて食べられないとかじゃないから」
「けどお前……」
「早めに体育館行こうかなって思っただけ」
「1時集合だろ? 飯くらいちゃんと食べてから」
「ほら、歯磨きもしなきゃだし。藤川もちゃんと歯磨いてから来るよーに」

 その場の空気を変えようとふざけてみれば「なんだ偉そうに」と、藤川が少しだけ笑った。

 ✳︎✳︎✳︎

 体育館には歯医者さんが4人来ていた。20代くらいの先生が3人と、少し年上に見える先生が1人。
 年上の先生が記録の仕方を説明してくれて、案外あっさり終わったなと思っていたんだけど。

「じゃあ、練習してみましょうか」

 一瞬、耳を疑った。そんなのがあるなんて聞いてない。当然、俺たちも健診を受けないといけないのは分かっていたけど、記録は先生たちがするんじゃないかと勝手に思っていたのに。

「2クラスずつに分かれて、交代で記録を取ってください」

 保健委員は各クラス男女1人ずつ。
 あれよあれよという間に先生から指示を受けて、俺は隣のクラスの男子、佐竹と記録をし合うことになった。

「よろしくね」
「あー……うん。よろしく」

 今からでも抜け出せないか、なんて考えながら挨拶を返す。佐竹は控えめな感じのやつで、話したこともなければ顔も見覚えがない。隣は文系クラスだし、授業で会うこともない。
 それなら、まあ、いいか。知ってるやつに記録されるよりずっとましだ。

「えっと、僕からでいいかな」
「ん。じゃあ俺記録するね」

 記録係用の席はちょうど歯医者さんが座っている場所の真横あたり。同じテーブルに器具も置いてあって、思わず目を逸らす。そして、目線を前に向けてさらに不安になった。
 下手したらここから口の中が見えるかもしれない。

「いいですか、始めても」
「あっはい」

 歯医者さんに言われて、準備されていた鉛筆を慌てて握り、記録カードに目を落とす。
 考えすぎだ。書くのに集中してれば口の中なんか見ないって。

「では右上から。7番から……左の7番まで斜線。下行って、7番斜線、6番シーラント、5番から5番まで斜線、6番シーラント、7番斜線。はい、噛んでください」

 え、1個も虫歯ないの……?

「歯並びも問題ないし、綺麗ですね」
「ありがとうございます」
「記録、できましたか?」

 歯医者さんが俺に顔を近づけて手元を覗き込んでくる。書き終わっていたけど、今からこの人に診られるんだと思うと急に怖くなって返事ができなかった。しかも、こんなに歯が綺麗なやつの後。最悪だ。

「うん、できてますね。じゃあ交代しましょうか」
「……はい」

 場所を代わってパイプ椅子に腰掛け、歯医者さんと向き合う。
 横には大きなスタンドライトがあって、こちらを明るく照らしている。歯医者さんが新しいミラーを持つのを見て、どくんと胸が脈打った。

「緊張してる? 大丈夫ですよ」

 大丈夫ってなにが? 全然、大丈夫じゃない。どうせ診てみたら大丈夫じゃなかったなってこの先生も思うに決まってるのに。

「少し上向いて」

 歯医者さんとの距離が縮まって、ゴム手袋をした手が顎に触れる。
 無理、こわい、見られたくない。

「開けてください」

 膝の上の手をぎゅっと握りしめ、小さく口を開けるとミラーが滑り込んできた。生ぬるい金属の感触が気持ち悪い。

「右上から、7番C、6番もC、5番がCO」

 そのあたりは全部痛いから、虫歯だって言われるのは分かっていた。だからせめて、痛いことしないで。
 そう思っていたのに、「4番が……」と歯医者さんの声が途切れる。思わず目を瞑る。カチャ、と音がして器具が口元に近づいてくるのが分かった。

「……んぅっ」

 はっと目を開ける。どうしよう、声出てた?
 佐竹の様子を横目で窺うと、驚いたようにこちらを見ている。

「4番C。3番から反対側の2番まで斜線、3番マル、4番マル、5番が斜線、6番C、7番マル。……記録できてますか」
「は、はい」

 佐竹の声には明らかに戸惑いの色が混じっていた。
 びっくりしてるんだろう。それとも引いてるか。もうなんでもいい。早く終わってほしい。

「じゃあ左下行って、7番、と6番斜線、5番CO、4番から……右の5番まで斜線、6番マル、7番マル……いや、ちょっとごめんね」

 また先の尖った器具が近づいてくる。終わりだと思ったのに、もういやだ……。顎を引きかけたのをくっと持ち上げられた。
 ガリ、と銀歯の縁を引っ掻かれたみたいな感触。

「っあ、」
「やっぱり7番もCで。はい、噛んでください。……歯列はそこまでじゃないか」

 やっと歯医者さんの手が離れていった。まだ上も下も痛む右頬に手を当てる。

「君、えっと、早瀬くん?」

 歯医者さんの顔を見たくない。泣きそうな顔をしている自覚がある。でもなんとか上を向いたのはただの意地だった。

「今すぐにでも歯医者に行ってほしい状態です」
「……分かってます」
「歯磨きももう少し頑張って。歯医者で磨き方を教えてもらうといいですよ」

 返事をする気力もなくて小さく頷いた。どうするべきかなんて本当に分かってる。できないだけで。

「はい、じゃあお疲れ様でした。――次、女子2人前のほうに来てください」

 立ち上がり、佐竹から無言で差し出された記録カードを受け取る。並んで体育館の入口へ歩いていくと、あの、と横から小さな声がした。

「ごめんね、変なもの見せて」

 気まずそうな佐竹に何か言われる前にへらっと笑って見せると、彼の表情が少し柔らかくなった。

「思ったより痛くてびっくりしちゃった」
「……だ、大丈夫?」
「だいじょーぶ。てか、溜め込みすぎだよね。佐竹は歯綺麗ですごいなぁ」

 本当は佐竹を置いて逃げ帰りたいのに、調子のいい台詞がぺらぺらと出てくる。

「そうかな……たいしたことないけど。定期検診に行ってるおかげかも」

 ✳︎✳︎✳︎

 たいしたことない、と言った佐竹の言葉はある意味正しかった。
 そのあとクラスの男子全員の記録をしたけど、虫歯がないか、あっても1、2本の生徒がほとんどだった。
 痛くて声をあげてた生徒なんて俺くらい……いや、もうひとりいたか。
 たしか虫歯の本数は俺と同じくらいだった。俺からひったくるように記録カードを取っていったあいつ、柊崎くきざき。今日初めて名前と顔が一致した。

「ねえ藤川、柊崎ってどんなやつか知ってる?」

 歯科健診が終わったあとは自習時間という名目ながらそれぞれ好きなように過ごしていて、教室はだいぶ賑やかだった。俺もいちおう数学の問題集を広げつつ、隣の藤川に尋ねる。

「柊崎? ああ、あいつね」

 新年度になって間もないので、教室の席は出席番号順に並んでいる。柊崎は窓側から3列目のいちばん前。課題をしているのか、黙々とシャープペンを動かしていた。

「頭いいとは聞いたことあるけど、それくらいだな。学年末は1位だったらしい」
「え、すごいじゃん」
「柊崎がどうかしたのか」
「んー……別に」

 あんなきっかけで興味を持つなんておかしいし、嫌だけど。でも、どんなやつか気になる。

「今度声かけてみようかな」