日当たりの良い、無人の保健室はしんとしている。
痛い。
俺はさっきの体育祭の練習中、短距離走で擦りむいた膝を見つめる。短距離走で転けるなんて、皆が見てる前で恥ずかしかった。
消毒してもらって絆創膏でももらおうと保健室に来てはみたものの、そこには誰もいなかった。たしか養護教諭と保健委員で救護テントを出していたから、その片付けをしているのかもしれない。
仕方なく、近くに置いてあった椅子に腰掛けて誰か帰ってくるのを待っていた。
痛い。
膝とはまた別の場所に痛みを感じて、左頬を押さえる。
半年前の歯科健診で指摘された虫歯だ。指摘されたのはそこだけじゃなかったけれど。
あれは最悪だった。
今年から保健委員が記録係をやるとかで、俺のクラスの記録をしていたのが早瀬だった。
早瀬はいつもクラスの中心にいるやつで、男からも女からもモテる。さっきのリレーの練習でも、アンカーを務めてひときわ大きな歓声を浴びていた。
彼が保健委員になったのは、たしかじゃんけんで負けたからだ。めんどくせ〜、保健室で授業さぼっちゃおうかな〜、とかなんとか冗談まじりにぼやいて笑いを誘っていたのを覚えている。
端的に言えば、俺とは接点のない種類の人間。
そんな早瀬がなんとなく俺は苦手で、あいつに俺のひどい口の中の状態を知られたと思うと屈辱的だった。
痛みが治まり、左頬から手を離す。
そろそろ誰か帰ってくるんじゃないか。そう思って後ろを振り向こうとしたとき、左頬にひんやりとしたものが当てられた。
「うわっ……!?」
ばっと振り向くと、そこにいたのはスポーツドリンクのペットボトルを俺の左頬に当てている、早瀬だった。
「おー、いい反応」
楽しげに笑って早瀬が俺からペットボトルを離す。もう片方の手には、救急箱が握られていた。
そうか、保健委員の片付けか。意外と真面目に仕事してるんだな。
救急箱を手近にあった台に置き、ペットボトルのキャップを開けながら早瀬が俺を見下ろした。
「何してんの、柊崎」
「別に……」
こいつに言う義理もないと思って言葉を濁す。
ところが早瀬は何食わぬ顔でごくごくとスポーツドリンクを飲むと俺の膝に目をやった。
「怪我? 消毒してあげよっか」
「な……!? いや、いい。先生来るまで待つ」
「ユミコちゃん帰ってくるのたぶんまだかかるよ?」
「ユミコちゃん……?」
「あ、保健室の先生の名前ね」
そんな呼び方してるのか、こいつ。俺とはまるで違う神経に呆気に取られていると、早瀬が救急箱を持って俺のそばにしゃがみこんだ。
「消毒くらい家でもするし、俺でもいいっしょ」
言うが早いか、早瀬は俺の座っているそばにしゃがみ込み、救急箱から消毒液とガーゼを取り出した。
「え、ちょっと待……」
「あー、けっこう擦りむいてるね。短距離走のとき?」
「……ああ」
「途中まで早かったのにね。惜しかったね」
よく見てるんだな。
少し意外に思ったけれど、今はただ彼の距離の詰め方が恐ろしい。
いつの間にか、俺の足を掴んでまさに消毒液をかけようとしているところだった。
「はーい、ちょっと沁みるよ」
俺が顔を顰めていると、早瀬はふと俺の顔を見上げた。
「そういえば歯食いしばれないでしょ。沁みても大丈夫?」
「……何言って、」
「たしか痛そうな歯だったよなって思って。まあでも、もう治してるか。流石にね」
冷や汗が体操服の下を伝う。
早瀬、覚えてるんだ。歯科健診の結果。
「あれ、まだだった?」
「……」
「ま、どっちでもいいか。とりあえずちょっと我慢してね」
言うが早いか、傷口にぱしゃぱしゃと消毒液がかけられる。
「う……」
掌を握りしめ、唇を噛んで耐える。
そんな俺の様子をちらと見上げて早瀬が言った。
「やっぱ治してないっぽいね」
傷口の周りに垂れた消毒液を拭き取り、手早く絆創膏が貼られる。
救急箱を閉じて、早瀬が立ち上がった。
「はいおわり」
「……どうも」
手を洗い、早瀬はまたスポーツドリンクを飲み始めた。
そんなの飲んでると虫歯になるぞと言いたかったけれど、どうせこういうタイプは気をつけなくても虫歯にはならない。そういうものだという偏見があった。
「なに」
俺の視線に気づいたのか早瀬が横目でこちらを見る。
「別に。いいよな歯が丈夫なやつは」
「どーしたの急に。自分が歯痛いから?」
「痛くない」
「ふは。バレバレなのにね」
小馬鹿にしたような言い方に苛ついてしまった俺は思わず立ち上がった。
「どうせ分からないよお前には。そんなもの何も考えないで飲んでも虫歯にならないようなやつには、俺の気持ちなんて……」
早瀬はしばらく呆気に取られたように俺を見ていた。
うわ。終わった。
虫歯を放置してるのを知られてるだけでも最悪なのに、八つ当たりするなんて恥の上塗りでしかない。もしこれを他のやつらに言いふらされたりしたらきっとクラスの笑いものだ。
でも前言撤回もできず、早瀬から目を逸らすこともできずにいると、早瀬のほうが先に、ふいと俺から顔を背けた。
「俺、虫歯ないとか一言も言ってないけど」
呟くようなその声に俺は眉をひそめる。
「ぜーんぶ柊崎の思い込みだよね。俺も訊きたいよ、気をつけてても虫歯になるからもう予防する気もなくしてこんなもん飲んでる人の気持ち、分かる?」
信じられない思いで早瀬に尋ねた。
「それ……早瀬の話? お前が?」
自嘲気味に笑いながら早瀬が俺のほうに歩いてくる。
「そうだよ、俺の話」
左頬に、スポーツドリンクのペットボトルがぐっと押しつけられた。その衝撃で歯がまた痛んだ気がした。
最初は気づかなかったけど、こいつ、たぶんここの歯が痛いのを分かっててやってる。
「俺も柊崎といい勝負。口ん中。だから気になってたの」
「……てっきり俺は、馬鹿にされてるのかと」
「馬鹿になんてしてないよ、勝手に親近感持ってたけど」
「親近感」
ペットボトルが離される。
「虫歯が多くて、歯医者も大っ嫌いなタイプでしょ。一緒」
早瀬の思いもよらない告白に動揺して何も言えないでいる俺を放って、彼はすたすたと保健室の入口のほうへ歩いていく。
そして外に出る前、俺を振り返ると唇の前に人差し指を立てた。
「内緒ね」
整った顔立ちの彼がするその仕草はとても様になっていたけれど、俺は急速にその唇の向こう側が気になり始めた。