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 十数年前の東高校陸上部には有名な先輩が二人いた。
 部長でムードメーカーの安永先輩と、副部長で優等生の鹿野先輩。それぞれ短距離と長距離の選手で、校内で右に出る者はいなかった。そして揃って美形。陸上部女子の間では二人を巡って熾烈な争いが……全く起きなかった。
 理由は単純、二人には素敵な彼女が既にいたからだ。「安永先輩と鹿野先輩どっち派?」なんて話題は幾度となく出たけど、それまで。
 ちなみに私はどっち派だったかというと、
「森崎は安永のこと好きだったよな」
「っ、げほっ……」
 麻酔をした後うがいをしていたら突如後ろから声が聞こえてきて、咽せてしまった。
「大丈夫か」
 コップを置き、振り返る。
「せ、せんぱいがっ、へんなっ、いう、から……っ」
「ん?」
 咳き込みながら話した言葉はよく聞き取れなかったのか、鹿野先輩が首を傾げる。
 咳が落ち着いてからもう一度言った。
「……先輩が変なこと言うからじゃないですかっ」
 歯が痛くなって歯医者さんに行ったら、担当医が偶然高校時代の先輩だった。虫歯は4本も見つかって、痛そうな神経の治療もしないといけない。今日が1回目の治療ですごく緊張しているのに、始まる前から変なドキドキが足されてしまった。
「違ったか?」
 鹿野先輩は悪びれもせず、というか本当に悪意はないのだろう、また首を傾げた。
「違わないですけど。あ、念のために言っておくと恋愛的な好きじゃないですよ」
「俺もそんなつもりでは言ってない。安永派だったなと思い出しただけで」
「そんな政党の派閥みたいに……」
「他に言い方があるか?」
「安永先輩派です」
「一緒じゃないか」
 そう言って先輩は器具が置いてある台を押しやると、座ったまま椅子を動かして私のすぐ隣に来た。
「知ってたんですね、うちらがそういう話してるの」
「まあな。直接言われたこともあったし」
「……鹿野先輩派じゃなくてすみません」
 隣でふっと笑う声がする。
「いいよ。むしろこっちも安永じゃなくて悪かったな。あいつのほうが診せやすかっただろ」
 しばらく考えた。安永先輩と鹿野先輩。揃って歯医者さんになった二人。
「……どっちもどっちです」
「そうなのか?」
「だってどっちにしても先輩の前で恥ずかしいとこ見せるかもしれないし」
 どっち派なんて言っても大きな差があったわけじゃないし、恋はしていなくても二人とも好感を持っていた先輩たちだ。情けない姿を見られたくない。
「私、まだ、頑張れる自信なくて」
 ぼわんと腫れぼったくなってきた右頬に触れる。痛くて我慢できなかったらどうしよう。先輩から逃げるなんてできなくて治療を受けに来たけど、本当はずっと帰りたい。無意識のうちにだんだんと背中が丸まっていった。
「そう言いながらいつもやり切ってみせるのが森崎だったよ」
 ぽん、と優しく背中が叩かれる。
 背筋を伸ばすと同時に、後ろから衛生士さんの声がした。
「鹿野先生、入ります」
 今まで診療室には鹿野先輩と二人きりだった。衛生士さんはちょうど手が空いてないけど治療までには来る、という話で。
「お疲れ様。ちょうど麻酔が終わったところです」
「すみません、お待たせして」
「大丈夫です。——じゃあ森崎さん、始めましょうか」
 そんな予感はしていたけど、鹿野先輩は人前ではタメ口で話さない。私は体が強張るのを感じながら、やっとのことで「はい」と口にした。