今日は久しぶりに定時で帰れるかも。
そんな期待をしていた17時、机上の電話が鳴った。ディスプレイに表示されているのは新人営業、渋江くんの番号だ。今日は研修で出張している。
「お疲れ様ですー、森崎です」
「お疲れ様です……。あ、あの森崎さん、大変申し上げにくいのですが……」
「うん、どしたの」
ああ、これはちょっと手間のかかるお願いをされるパターンだな。覚悟を決めながら尋ねる。さよなら定時退勤……。
「A社の見積書、明日の朝一で持って行かないといけなくなりまして……」
「え、結構前に訪問してたところだよね?」
「はい……。打ち合わせは済んでいたのですが、僕が見積書の送付をすっかり失念しておりまして……見積書を、作っていただけないでしょうか」
「了解です。データはどこまで入力してあるの?」
渋江くんがこんなに言いにくそうにしているということは、たぶん中途半端か、作り直しだろうなと予想しながら尋ねる。
「えっと、一応入力はしたのですが……その後いろいろ変更点があって……ほぼ、作り直し、のような状態です」
「んー、わかった。内容、いま口頭で教えてくれる? メールでもいいけど」
「いまお伝えします」
そこから渋江くんに伝えられたのは、なかなかややこしい内容だった。
見積書を作るのが難しくて後回しにしてしまったのかもしれないけど、こんな大きい案件を放置しないで渋江くん……。
「……以上です」
「ありがとう。じゃあ見積書は作って渋江くんのレターケースに入れておくからね。明日確認してから持って行ってください」
「ありがとうございます」
「今度から、難しい案件があったら早めに相談してね」
「申し訳ありません」
「いえいえ。研修お疲れ様。今から新幹線?」
「はい」
「気をつけて帰ってきてね」
「ありがとうございます。……では、失礼します」
最初よりは明るい様子で渋江くんは電話を切った。
「渋江さんですか?」
隣に座っている後輩、鹿野さんが眉を顰める。
「うん。見積書作ってほしいって」
「大丈夫ですか? 森崎さん具合が……」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
社内システムでA社のデータを呼び出す。
だいじょーぶ、とは言ったものの、少し前から違和感のある右下の奥歯は鈍く痛んでいた。
会社の近くに20時まで開いている歯医者さんがある。当日駆け込みで診てもらえたという情報もあった。定時に帰れたらそこに行ってみるつもりだったけど、今度にしよう。そう考えながら見積書の作成に取りかかった。