浅賀の勤務する大学病院は毎年臨床研修医を受け入れており、同大学の卒業生を中心に、歯科医師免許を取りたての若者たちがやってくる。
西矢もその一人だった。浅賀の4つ年下の西矢は同年代の研修医たちの中でも落ち着いていると言えば聞こえはいいが、感情が表に出ず何を考えているのか分かりにくい、そのような印象を浅賀は彼に対して抱いていた。
「お前にどことなく似てるんだ、柊崎」
「俺ですか」
「そう、表情筋が固まってるんじゃないか心配になるタイプ」
「失礼ですね。……同僚にも言われましたが」
お前のほうがいくらかましかもな、と浅賀は笑いながら話を続ける。
それは研修が始まって間もなくのこと。研修医たちと歳の近い先輩の勤務医たちでお互いの検診をすることになり、浅賀の担当をすることになったが西矢だった。前年までそのような機会はなかったので全く用意のできていなかった浅賀は非常に焦った。何を隠そう、浅賀は未処置歯を大量に放置していたのだ。さらには忙しさと少しばかり痛みのせいもあり、歯磨きもまともにできていない。そんな口の中を後輩、しかも得体の知れない西矢に診られるなど恐怖でしかなかった。
とは言っても逃げられるような状況ではなく、「俺はたぶん虫歯あるからな」といかにも自覚症状はないような言い回しをしながらしっかり予防線を張った上で、心がけて平然と西矢の検診を受けた浅賀だったのだが。
「まあ、その……だいぶあってだな」
「……どれくらいか訊いてもいいですか」
「いや、これはあまり……」
「俺は言いましたよ? 治療前何本あったか」
「……両手で足りるくらいではあった」
かろうじて2桁に届かないくらいか。俺と同じだな、と密かに安心感を覚えた柊崎をよそに浅賀の声の調子はますます暗くなっていった。
西矢は普段通りの無表情で検診を終えると「多いですね」と一言目にそう言った。それが驚いた様子でも軽蔑した様子でもないのが浅賀は気味が悪くて仕方がなかったのだが、そんな浅賀に西矢は静かに尋ねた。
「最初、たぶんって言ってましたけどどこも痛くないんですか?」
痛くないわけがないのだ。自分でもざっと確認したことはあるがC2、もしかするとC3レベルかという虫歯があちこちに見受けられる。ありとあらゆる食べ物、飲み物が歯に沁みるしどこかは分からないが疲れが溜まると鈍く痛み出すこともある。しかしまさかそれを正直に言うことなどできず、浅賀は「痛くないんだよ、本当に」と引き攣った笑みで返したのだった。
それからだろうか、西矢の視線を感じるようになったのは。診療中、ミーティング中、休憩時間、歯が痛んでつい顔を顰めたり頬に手をやったりしたとき、ふと気が付くと西矢が浅賀のことを見ている。浅賀にはその目が「まだ治してないんですか?」と言っているようにしか見えなかった。言葉には出さない、表情にも出さない。だが西矢も感情のある普通の人間でしかも歯医者だ、心の中で何かしら思っているはずなのだ。そして自分のような口内を見たときに大多数の者が何を思うかは浅賀にも容易に想像できる。
西矢は、汚い口をした俺のことを軽蔑している。浅賀はそう確信していた。
幸い後期に入ると西矢は大学病院を離れて他の歯科医院で研修を受けたので、浅賀の心労が絶えない日々は半年で終わりを告げた。そして西矢が無事に研修を終え、市内の歯科医院に就職が決まったのが昨年の春。もう会うことはないと浅賀はやっと胸を撫で下ろしたのだった。ところが。
「……いたんだよ、今年のバイト先に」
「相手も気づいてるんですか」
もちろん、と浅賀はうなだれるように首を縦に振った。
西矢と約2年ぶりに顔を合わせた日のこと。浅賀は彼の存在にすぐ気づいた。西矢のいる歯科医院でひと夏を過ごさなければならないことを絶望したのだが、あわよくば西矢が忘れてくれていれば、という考えもあった。なるべく顔を見ないようにして、接触も避けた。しかし彼は向こうから近づいてきた。
「俺のこと覚えてますか、浅賀先生」
そう尋ねた西矢は相変わらず笑顔もなく、いやに落ち着いた雰囲気もそのまま、むしろ年齢と経験を重ねてそれは増したようにさえ見えた。
「えっと、どこかで会ったかな」
後輩相手に知らばっくれた自分を最悪だと思った浅賀の気持ちを知る由もなく、西矢は顔色ひとつ変えずにこう言った。
「あの、浅賀先生の検診をさせてもらった西矢です。研修でお世話になった……その節はありがとうございました」
深々と頭を下げた西矢を前に浅賀は内心震え上がっていた。こいつ、検診のことをいの一番に言ってきた……まさかあれから歯はちゃんと治療しましたか、とか訊いてくるんじゃないだろうな。
治療はした。あの後耐えきれなくなった所は。それ以外は……今でも放置している。また最近あちこち痛み出して気になっていたところだ、西矢にそんなことを知られるわけにはいかない。
しかし西矢はそれ以上浅賀の歯については触れなかった。
ただ、それ以降週1で会うたび、西矢はやたらと浅賀に近づいてくる。話題は仕事の相談を中心にたまに前日行われたスポーツの試合結果の話だったりと様々だったが、話しているときも西矢に口の中が見えるんじゃないかと気が気でない。それに他人に関心がなさそうな後輩がこんなに距離をつめてくる理由が浅賀には自分の歯のこと以外思い当たらなかった。2年前と同じく監視されているような気持ちなのだ。早く夏休みが終わってほしい。早く西矢から解放されたい。
浅賀にとって今年の夏休みが憂鬱なのはそういうわけだった。