「お前また冷蔵庫空っぽだな……」
持って来た食事を入れようと飴井の家の冷蔵庫を開けると、その中は綺麗なものだった。
ミネラルウォーターのペットボトルが数本あるだけ。レトルトや菓子の類も一切入っていない。
「昨日は? ちゃんと食べたのか」
「食べたよ。昨日はちゃんと昼と夜と食べた」
そんなドヤ顔で言うことじゃないけどな。
「何食べたんだ?」
「えっと、昼はコンビニで買った弁当。夜はラーメン食べに行った」
「体に悪そうな食事の見本みたいだな」
「そうかも。でもおれ、超健康だから大丈夫。五十川の食事のおかげもあるのかも」
そう言われると悪い気はしない。
実際にここ数年、彼が風邪や体調不良になった記憶はなかった。
「ね、今日は何?」
ソファでくつろいでいた飴井がキッチンまで歩いて来て、俺が皿に出して並べている料理を興味津々といった様子で眺める。
「ハンバーグ? やった」
「前食べたいって言ってたから」
「うん、食べたかった。昨日ラーメンとハンバーグ迷ってさ」
「小学生の好きなものかよ……」
「でも好きなんだよね」
「まあ俺も好きだけど。あとは白飯と、スープとサラダ」
スープは温め直し、料理をテーブルに並べ終えると、飴井が「早く食べよう」と目を輝かせた。
「悪いけど、今日はお前一人で食べて。ちょっと食欲ないから」
そう言うと、彼の表情が曇る。
「体調悪いの? 風邪?」
そう言いながら飴井は俺の額に手を伸ばした。
「熱はないみたい」
「ねーよ。ちょっと頭痛いっていうか……そんな感じ」
「本当に大丈夫? 体調悪いのにいつも通り来てもらっちゃってごめんね」
「だって来ないとお前が餓死するんじゃないか心配で」
「いや、それは心配しすぎ」
飴井は苦笑しつつも、「じゃあ、お言葉に甘えて」と席についた。俺も向かい側に腰掛ける。
「いただきます」
飴井は迷わずハンバーグに箸を伸ばした。大きめの一口に切り分けて、頬張る。
「美味い! めちゃめちゃ、肉って感じ」
「牛肉100%にしといた」
「どうりで!」
「お前牛肉好きだし」
「大好き。あと定番でステーキも好きなんだけど」
「肉買って来い。焼いてやるから」
「そこは買ってきてくれないんだ……自分で買うのはなー」
ステーキか。
いつもなら俺も食べたいと思うところだけど、真っ先に考えたのは食べたら痛そうだな、ということで悲しくなってしまった。
「どうしたの、やっぱり調子悪い?」
気持ちが顔に出ていたらしく、飴井が心配そうに俺をじっと見てくる。
「いや、なんでもない」
歯が痛いなんて言えるはずがない。特にこいつには。
歯科医の飴井にバレるわけにはいかないのだ。
飴井は曇った表情のまま、今度はスープに取り掛かかる。
味見が十分にできなかったやつだ。美味しくできてるといいんだけど。
そう思って飴井の反応を窺っていると、スープを一口飲んだ彼は首を傾げた。
「……やっぱり、だいぶ調子悪いんじゃないの? 五十川」
「なんでだよ」
飴井はスプーンでくるくると器の中をかき混ぜてから、もう一度それを口に運んだ。
「不味いわけじゃないよ。でもなんかいつもと違うっていうか」
「あー、そうだ、味見してなかったかも」
「そう? ほら、調子悪いときって舌がおかしくなったりするから。そうじゃないならいいんだけど」
俺の目の前にスプーンが差し出される。
「五十川も一口飲んでみる?」
「は?」
「味見で」
ここで頑なに拒んでも怪しい。俺は渋々スプーンを受け取る。
スープからはまだ湯気が立ち上っていて、見るからに熱そうだった。
息を吹きかけて少し冷ます。
右で飲めば、たぶん大丈夫……。
気をつけながらスープを口に含む。
だが、そんな器用な飲み方は身につけていなかった。
思わず顔を顰めて左頬を押さえてしまい、はっとして飴井の顔をちらりと見やる。彼の心配そうな目と視線がばっちり合ってしまった。
「五十川……痛いの頭じゃなくて歯、だよね」
「いや、そんなわけ」
「ちょっと見せて」
飴井は席を立って俺のすぐ横まで来ると、頬を押さえている俺の手に自らの手を重ね、俺の顔を自分の方へ向かせた。
「上? 下?」
「だから違うって……」
飴井の手を払いのけると、彼は悲しそうに眉を下げた。
「おれに見られるの嫌?」
「……嫌だよ」
「なんで? 怖い?」
「ちげーよ」
違わないけど、怖いなんて間違ってもこいつの前で言いたくなかった。
情けない姿を見せたくない。いつも飴井に生活習慣のことをとやかく言っている俺が虫歯だなんて、ましてや歯医者に行くのが怖くてなかなか治療できないでいるなんて、格好つかないにも程がある。
「おれが頼りない?」
「んなこと言ってないだろ」
「じゃあいいでしょ、ね?」
飴井は俺の顔を両手で包み込むと、「あーんして」と囁くように言った。
「やめろよ、歯は大丈夫だから」
「やだ。五十川がいつもおれのこと心配してくれるみたいに、おれにも五十川の心配させてよ」
飴井の大きな瞳は俺をまっすぐに見下ろしている。
普段と逆の位置からの視線に絡め取られて自分の意思を失ったみたいに、俺はゆっくりと口を開けてしまった。
「ん、いい子」
かっと顔が熱くなる。口を開けてしまったことを心底後悔した。
そういえばこいつ、小児が専門とか言ってたか。
三十路手前の男に向かっていい子はキツい。
全力で抗議したいところだったが、俺の口はとうに飴井の指によって自由を奪われていた。
「あ、この上かな?……うーん、痛かったでしょ、これ」
飴井が気の毒そうに眉根を寄せて左上の歯をじっと見つめる。
ひどい状態だと呆れられるか怒られるかもしれないと思っていた俺は、予想外の反応にますます落ち着かなくなる。
この状況に耐えきれなくて口を閉じようとすると、「もうちょっと待ってね」と言いながら飴井は俺の口内に視線を巡らせた。
「今までにも治したことあるんだね。頑張ったね」
労るような台詞にさらに羞恥心が増した。
俺の口の中には大きめの銀歯が3本ほど入っている。たまに虫歯になっては恥ずかしさと怖さで歯医者に行くのをギリギリまで我慢した結果だ。
俺はたまらず飴井の手を掴んだ。
「あ、ごめん。もうやめるから」
案外すんなりと飴井は俺の顔から手を離した。
何を思っただろうか。俺の、お世辞にも自己管理できているとは言い難い口の中を見て。
「ねえ、五十川」
返事をする気力もなく視線だけ飴井に投げる。
飴井は俺の左頬に指先をそっと触れさせた。
「ここ、治そう? おれに治させて」
「いいよ、お前がやんなくて。忙しいだろ? どっか適当な歯医者行くわ」
「適当な歯医者に五十川のこと任せられないよ」
「……分かれよ」
口から出た言葉は自分で思っていた以上に強い口調だった。
飴井の指を払いのける。
「お前に恥ずかしいとこ見せたくねえって言ってんの。察しろよ」
「何も恥ずかしくないじゃない。誰だって虫歯にはなるし――」
「そういうことじゃねえよ! 正直どう思ったんだよ、ちゃんと飯食えとか体のこと考えろとか散々言ってくる奴がこの様で」
「それとこれとは別」
「同じだろうが。自己管理できてないんだから。風邪も引かなければ虫歯もないお前のほうがよっぽど優秀だよ」
言い切ってしまって、俺は俯いた。
いっそだらしないと罵ってくれれば、俺もこんな後味は悪くなかったのに。ひたすらに俺を案じてくれている飴井に八つ当たりしてしまって、余計にみじめな気持ちだった。