(風見Side)
「今日は、この前もちょっと話したけど、根っこのお掃除の続きをしような」
先に麻酔をして、夏くんが和瑚ちゃんに今日の治療内容を説明している間、和瑚ちゃんのカルテを確認する。
浜辺和瑚ちゃん、高校1年生。現在根治中なのは、右下6番。未処置歯があと2本、処置歯はインレーが1本とCRが2本か。
夏くんの説明を受ける和瑚ちゃんにそっと視線を向けてみれば、膝の上に置かれた手はぎゅっと握りしめられていた。
俺はカルテを置いて和瑚ちゃんに目線を合わせる。
「和瑚ちゃん、最初はちょっと痛いかもしれないけど、だんだん痛くなくなってくるはずだからね。頑張ろうね」
「ゆっくりでいいからな」
不安げな目が俺と夏くんを順番に映して、「頑張ります」と和瑚ちゃんが小さな声で言った。
「ん。じゃあ、椅子倒してもいいかな?」
和瑚ちゃんが頷く。
ユニットを倒して、俺が無影灯の位置を調整していると、和瑚ちゃんの目に薄い膜が張った。「和瑚ちゃん」と呼ぶと、潤んだ目が俺の方を見る。
「頑張れないって思ったときはすぐ教えて? 無理しちゃだめだよ」
ここで無理をさせると、この治療がトラウマになってまた歯医者から足が遠のきかねない。それだけは絶対に避けたかった。
倉木さんの話じゃもともと歯医者さんが苦手そうってことだったし、もしかしたらもうすでにそんな経験があるのかもしれない。
「で、でも」
「でも、なあに?」
夏くんと俺を見上げながら、和瑚ちゃんは遠慮がちに言う。
「そんなこと言われたら、すぐ頑張れなくなっちゃう……」
「え? 別にいいよね、芳野先生」
「ああ。わがまま言うくらいでいいよ」
「でも」
和瑚ちゃんはまだ戸惑ったように瞳を揺らしていた。
「私が悪いんだから、なにがなんでも我慢しなきゃ……」
ああ、相当思いつめて来たんだな、この子。
「それ、芳野先生に言われたの?」
「え!? ううん、言われてないです」
「じゃあ、いいんじゃない? ね」
夏くんを見ると、彼が大きく頷く。
「和瑚ちゃんが悪いとも、なにがなんでも我慢しろとも思ってない。和瑚ちゃんが少しでも辛くないように、俺も頑張るから」
和瑚ちゃんの表情が幾分やわらいで、「わかりました」と頷いた。
「よし、じゃあちょっとやってみようか」
「はい……」
「最初は、機械で仮の詰め物を取るからな」
仮封を取るためにタービンに手を伸ばす夏くんを、和瑚ちゃんが目で追う。
バキュームを手に取りながら、そんな和瑚ちゃんに声をかけた。
「ちょっと響くかもしれないけど、そんなに痛くないよ」
また一つ和瑚ちゃんが頷く。
「はい、あーん、できるかな」
夏くんの言葉に和瑚ちゃんはそっと目を瞑って、口を開いた。
「和瑚ちゃん、お水を吸う機械入れるよー」
声をかけながらバキュームを入れて、軽く口内を広げる。
タービンのバーが仮封に触れると、わずかに和瑚ちゃんのまぶたが動いたけれど、表情が大きく変わることはなかった。
「よし、仮の詰め物が取れたよ。このまま根っこのお掃除していくな」
夏くんがタービンを置き、ファイルを手に取る。
目を開けてその様子を見ていた和瑚ちゃんは、ファイルが口元に近づくと、泣きそうに顔を歪めた。
「怖い?」
夏くんの問いかけに和瑚ちゃんは首を横に振る。
お腹の上でハンカチを握る手が震えていた。
「だいじょうぶです……がんばる……」
俺は夏くんと顔を見合わせたけど、夏くんの決断は早かった。
「じゃあ、とりあえず1回頑張ってみような」
和瑚ちゃんが頷いて目を瞑ったのを見て、夏くんが右下6番にファイルを沈めていく。
「ん……は……」
声は出さないものの、和瑚ちゃんは時々辛そうに息を漏らした。
「和瑚ちゃん、力抜いてな」
「ゆーっくりお鼻で息しようねー」
言われた通りに、和瑚ちゃんは一所懸命に深呼吸を繰り返す。
「ごめんな、ちょっとチクチクするぞー」
「ぁっ、あ、あぁんっ」
夏くんが奥まで沈めたファイルをねじると、和瑚ちゃんの体にぎゅっと力が入って、小さな口から声が漏れ出した。
「痛いなぁ……ちょっとだけ我慢してな……」
「和瑚ちゃん、あーんだよー」
和瑚ちゃんは声をあげながらも、ハンカチを握りしめて口を閉じないように頑張ってくれている。
夏くんがファイルを引き抜くと、和瑚ちゃんの目からぽろっと涙が一粒零れた。