バレンタイン

 学校帰りに私は歯の定期検診に来ていた。

「あ、もしかしてバレンタイン?」
 
 診察室に通されて、学校指定の鞄の横に小さな紙袋を置くと、衛生士の倉木さんにさっそく見つかってしまった。それもそのはず、紙袋からは可愛くラッピングされた袋がはみ出している。

「和瑚ちゃんモテモテだね」
「ち、違います。友達と手作りのお菓子交換したんです」
「友チョコかー。私も作ったな」

 私にエプロンをつけながら、懐かしい、と倉木さんが笑う。

「和瑚ちゃんはなに作ったの?」
「マカロンです」
「すごいね!」
「お菓子作り結構好きで……」
「そうなんだ。いいな、私も食べたくなってきた」

 実は、倉木さんと芳野先生、風見先生の分も持ってきていた。さすがに手作りマカロンじゃなくて市販のチョコレートだけど。
 歯医者さんや衛生士さんにお菓子を渡していいのか迷ったけど、この感じだと倉木さんは大丈夫そう。風見先生も受け取ってくれそうな気がする。芳野先生は甘いものを控えているらしいから断られちゃうかもしれないけど、気持ちだけでも伝わればいいなと思っていた。
 
「こんにちは。なんか楽しそうだな」

 芳野先生が診察室に入ってきて椅子に座る。

「バレンタインの話ですよ、芳野先生」
「あ、そっか。そういえば今日だよな」
「あのっ、先生はチョコもらったりするんですか?」

 渡しても大丈夫そうか判断したくて、恐る恐る聞いてみる。

「あんまりもらわないな」
「えっ……やっぱり歯医者さんだからもらわないようにしてる、とか……?」

 私も渡しちゃだめかな?と落ち込みかけていると先生は苦笑した。

「違うよ。単純にモテないってこと」
「そ、そんなことないと思いますけど」

 私が言うと、倉木さんも隣で頷く。

「芳野先生ってたぶん渡しにくいんですよ。体づくりのために食事制限とかしてそうだし、甘いもの好きそうに見えないし」
「え!? 食事制限もしてないし甘いものも気をつけてはいるけど好きだぞ?」
「……じゃあ、もらったら嬉しいですか?」
「そりゃあ嬉しいよ」

 先生の口元に白い歯がのぞく。気持ちはすっかり晴れた。帰るときにチョコを渡そう。

「今日は検診だな。ちゃんと3ヶ月に1回来ててえらいなぁ」

 今までのカルテを見ながら先生が褒めてくれた。
 前はさぼりがちだったけど、神経の治療をしてからはきちんと通っている。これも、先生たちがいつも優しく接してくれるおかげだった。

「それじゃ、診てみようか。椅子倒していいかな?」

 頷くと診察台が倒れていって、ライトで口元が照らされた。後ろからは先生が手袋をはめる音。さっきまでの楽しい気持ちを追いやるように不安が膨らんでいく。

「右上から診ていくな。あーん」

 ミラーが口の中に入ってくる。最近新しい虫歯は見つかっていないけど、もしかしたら今日は、と毎回自信がない。ミラーが少しずつ動かされるごとに、よかった、次も早く通り過ぎて、とそんなことばかり思っている。

「上の歯は綺麗だよ。左下いくな」

 少し力が抜けたのも束の間、特に緊張する所にミラーが向けられた。左下の一番奥の歯。そこは経過観察を続けている虫歯だ。芳野先生はじっとそこを見た後、ミラーを左手に持ち替えた。

「風かけるよ」

 思わず目を瞑るとすぐ口の中でシュッと音がした。沁みなかったけど、ぴくんと肩が跳ねる。

「ごめん、ちょっと引っかくよ」

 器具を取る音。そっと目を開けると、芳野先生はなんだか険しい顔で私の口の中を見ていた。嫌な予感がする。
 噛み合わせの面がカリカリと引っかかれ、んー、と芳野先生が小さく唸った。
 今までの検診では、見るだけで終わるかこんなふうに調べてもすぐ大丈夫と言ってくれていたのに。芳野先生はなにも言わず、ミラーを次の歯のほうへ動かした。

「椅子起こすよ。一旦うがいしてな」

 その後も特に虫歯を指摘されることはなく、検診は終わった。ただ、左下の奥歯のことだけが気がかりだ。
 うがいを済ませると私は芳野先生の様子を窺った。

「和瑚ちゃん、新しい虫歯はできてなかったよ。歯磨きもよく頑張ってるな」

 ただな、と先生は続ける。

「左下の虫歯がちょっと進んでるんだよ。そろそろ治療したほうがいいと思う」
「……はい」

 予想はしてたけど、治療と言われてしまうと怖くなってきゅっと手を握りしめた。

「今日はお掃除だけしてもらって、治療は近いうちにやろうか」
「近いうち?」
「ん、来週とか。今日はその予定じゃなかったもんな」

 先生の声音がいつにも増して優しい。たぶん私が怖がっているのに気づいているんだと思う。
 気遣いは嬉しい。でも、少し考えてから尋ねた。

「今日治療することは、できませんか」
「俺はいいけど……和瑚ちゃんは大丈夫か?」
「大丈夫かは……わかんないけど……。でも、来週まで不安なままなのも嫌かもって……」
「なるほどなぁ。じゃあ今日やろうか」
「お願いします」
「うん。準備するから、ちょっと待っててな」

 芳野先生と倉木さんが診察室を出ていく。
 今日やるって言っちゃった……。
 診療台の上で背中を丸めて待っていると、隣の診察室から歯を削る音が聞こえてきた。嫌でも耳に入ってくるその音に、だんだん子どもが泣いているような声が混ざり始める。

「おっきく開けようねー」
「虫歯さん取れてるからね、頑張ろうねぇ」

 隣の子も頑張ってるんだ。私も……。
 私も、できるかな……。
 痛かった治療のことを思い出す。ぽたりと涙がこぼれた。

「お待たせ、和瑚ちゃん」

 芳野先生と倉木さんが戻ってきたので慌てて涙を拭う。

「和瑚ちゃん?」
「どうした」

 二人に顔を覗き込まれる。倉木さんがそっと私の肩に手を添えて尋ねた。

「怖くなっちゃった?」

 頷くと、そっか、と倉木さんが優しく肩をさすってくれた。
 和瑚ちゃん、と芳野先生に呼ばれる。潤んだままの目を横に向けると、同じ高さで先生は私を見ていた。

「和瑚ちゃんがきちんと検診に来てくれてたおかげで早めに治療できるから、今回は痛くないはずだよ」
「そうなんだ……」
「先に言えばよかったな。ごめんな」
「いえ、そんな」

 前の、痛かった治療とは違うってことだ。はっきり言ってもらえて少し安心できた。

「でも気持ちがしんどいなら、今日はやめておこうか」
「ううん、大丈夫です」
「無理してないか?」

 心配してくれているのが先生の表情から伝わってくる。目の端に残っていた涙を指で拭い、私は頷いた。

「よし、じゃあやってみような」

 芳野先生が後ろのほうに移動する。
 倒すよ、という声がして診察台が倒れていく。ライトがついて、マスクをした芳野先生と倉木さんに見下ろされる。お腹の上で手を組んでぎゅっと握った。

「麻酔しなくても痛みはなさそうだけど、麻酔なしは不安?」
「ん……どうかな……」

 麻酔そのものも苦手だから、しなくて済むならそれでいい気がする。

「痛くないなら麻酔しなくて大丈夫です」
「わかった。万が一痛いときはすぐ左手挙げてな」
「はい」

 器具を取る音がして、ミラーが口元に近づく。小さくだけど、思い切って自分から口を開けることができた。

「鏡入れるよ」

 ミラーが内頬を押さえる。

「水が出る機械で洗ってくからな」
「大きい音がするよー」

 左と右両方から機械が入ってくるのが見えてそっと目を閉じた。
 機械の先が歯に触れて、チュイイィ……と音を立てる。体じゅうに力が入った。

「沁みないか?」

 芳野先生が手を止めて尋ねる。目を開けて小さく頷いた。

「10秒くらい続けても大丈夫そう?」
「はい」

 治療が再開される。もう一度目を閉じてゆっくりと10秒数え始める。
 8、まで数えたころ、甲高い音のする機械が口の外に出ていった。でも他の器具は口に入ったままだ。

「もう少し続けられる?」
「ん……」
「ゴトゴトするけど、おっきく開けててな」

 さっきとは違う音が鳴り始めた。
 聞き覚えのあるその音は痛い思い出と結びついていて少し怖い。でも最初に言ってもらった「今回は痛くない」という言葉を信じて口を開きなおす。機械が口の中に入ってきて歯に触れると、不快な振動が伝わってきた。
 これ、やっぱり苦手だ……。体にますます力が入っていく。それと同時になんだか口が開けにくくなった気がした。

「和瑚ちゃん、力抜いてねー」
「大丈夫だからな」

 力が入っているのは倉木さんと芳野先生にも分かってしまったみたいだ。ゆっくり鼻で深呼吸してみる。

「上手だよ。あと少しだけな」

 芳野先生はそう言ってからが長いんだよね……と心の中でこっそり考えていたら本当にすぐ削るのは終わって、口の中に溜まった水を吸われる。
 機械の音が止まって静かになったのでそっと目を開けた。

「虫歯取れたか確認するよ」

 薬を塗って洗い流した後、カリカリと引っかかれる。その後、先生はミラーを使いながら念入りに見ていた。

「うん、綺麗になってる」
「えっ……終わり、ですか?」
「ああ。あとは詰めるだけだよ」

 詰め物を入れて光で固め、噛み合わせを確認すると、芳野先生がまた機械を手に取った。不安が顔に出てしまったのか、先生が私に笑いかける。

「詰め物の形を整えていくよ。痛くないから安心してな」

 歯を削るときと同じような音と振動が響いてくるけど痛くない。そのあと別の道具で磨かれ、口の中に入っていた器具は全部出ていった。

「おしまいだよ。うがいどうぞ」

 ライトが消え、診察台が起き上がるとともに肩の力が抜けていった。
 
 うがいをし終わると、芳野先生がエプロンを外してくれた。

「頑張ったな。お疲れ様」
「ありがとうございました」
「次はまた3ヶ月後に診せてな」
「はい」
 
 診察台を下りて、鞄と紙袋を取る。
 チョコ、どうしよう。渡そうと思っていたけど、虫歯の治療をした後で渡すのはやっぱり気が引けた。
 やめとこうかな。小さく頭を下げて、診察室の入口に立っている芳野先生と倉木さんの前を通り過ぎようとした。

「和瑚ちゃん」

 倉木さんに呼び止められて足が止まった。倉木さんは私に肩を寄せて囁く。

「いいの? 芳野先生に渡したいもの、あったんじゃない?」
「え……」

 びっくりして倉木さんの顔を見た。

「なんで分かったんですか」
「勘、かな? 渡そうよ。先生きっと喜ぶよ」

 倉木さんに後押しされて振り向く。芳野先生が軽く首をかしげた。

「あ、あの」
「おう」
「これ……」
 
 芳野先生を見上げて、両手を伸ばして、ラッピングした小さな袋を差し出す。中には美味しいチョコレート屋さんで買ったビターチョコが2個。

「歯医者さんにこんなことしていいのか分からないんですけど……。お世話になってるから、渡したくて」

 芳野先生が私の手から袋を取る。

「まじで? 俺に?」
「はい……」
「すげぇ嬉しい。ありがとな」

 小さな袋を両手で持って、私と目線を合わせて芳野先生が笑う。私も自然と頰が緩んだ。

「倉木さんにも」

 横で微笑んでいる倉木さんにも袋を渡すと、倉木さんは一転して目を丸くした。

「私にも?」
「もちろんです」
「ありがとう!」
「あと、これは風見先生に渡してもらえませんか」

 最後にもう一袋、倉木さんに渡す。
 
「了解。お預かりします。風見先生も喜びそう」
「絶対喜ぶわ。本当にありがとな、和瑚ちゃん」
「いえっ、こちらこそ。いつもありがとうございます」

 これからも検診を欠かさないように頑張って、先生たちと良い関係でいられたらいいな。そんな思いを新たにした。