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 俺を診療台に座らせると、薬取ってくるから待ってて、と兄ちゃんは診療室を出て行った。
 言えなかった。本当は歯が痛いんだって、早く言わないといけないのに。今からでも兄ちゃんを追いかけて……そう思うのに、俺は一歩も動けなかった。
「お待たせ」
 あっという間に兄ちゃんは戻ってきて、術者用のスツールに腰掛けた。
「噛んじゃったの、どこ? 先に診てもいいかな」
 顔を覗き込まれ、グローブをした手が顎に触れる。思わず肩が跳ねた。
「謙斗?」
 兄ちゃんの訝しむような声がした。
「ごめん……!」
 耐えきれなくなって謝ると、兄ちゃんの手が離れていく。
「……本当は、歯が痛くて……衛さんもいたしなんか言いにくくてさ」
 これから治療が始まるのも兄ちゃんの反応も怖いのに、頭の隅にはどこか冷静な部分があって、口に出してみたら意外となんとかなるもんだなと考えている自分がいた。声は震えなかったと思うし、明るく、大したことではないように言えてしまった。
「嘘ついてごめんなさい。兄ちゃんには悪いけど、診てくれないかな?」
 こんなふうに兄ちゃんに治療を頼んでは、仕方ないな、と優しく治療してくれるのが常だった。今回はちょっと嘘をついてしまったのと、言うタイミングを逃したのは悪かったけど、兄ちゃんなら今回だってきっと。そう思っていた。
「……診るのは構わないよ」
 思った通りだ。ほっとして、ありがと、と言いかける。ところが、俺の言葉は兄ちゃんの静かな声に遮られた。
「だけど、謙斗はいつまでそうしてるつもり」
「な……なんだよ、急に」
「歯医者さんになるんだろ」
 兄ちゃんに真正面から見据えられ、俺は思わず俯いた。一番言われたくない言葉だった。
「……なりたくて、なるわけじゃない」
「医学部のこと? そんなに行きたいなら今からでも受験しなおせばいいじゃないか。父さんだって反対しないさ」
「この歳になって再受験とか簡単に言わないでよ」
「じゃあ、歯医者さんになるんだろ。なりたくなくても、それは謙斗が選んだことだよ」
 兄ちゃんも父さんもこういう人だ。大事な決定をするときに、絶対に自分の意見を押し付けてこない。いいことなんだと思う。その代わり人のせいにするのは絶対に許されない。
 医学部に落ちたときに浪人せず、後期で歯学部を受けて進学したのは俺が決めたことだ。その結果どうなるか、どうするかは俺が責任を負わないといけない。
「こんなにしょっちゅう歯が痛くなって、こんな状態で他の患者さんたちを助けられると思う?」
「助けられる、よ。歯が痛い歯医者も体調が悪い医者もいっぱいいるじゃん」
「そうかもしれない。だけど、健康でいるほうがよりいい仕事ができる。謙斗もそう思わないかな」
 正論だ。でもただの理想論だ。
「……うっさいな」
「謙斗?」
 兄ちゃんが目を丸くする。でも俺はもう止まれなかった。
「兄ちゃんは虫歯になったことないからそんなこと言えんだよ! 偶然歯が強いからってなんだよ偉そうに。……俺、虫歯になったことあってよかったって今思ったよ。兄ちゃんみたいに人の気持ちわかんない歯医者になるよりは、よっぽど、マシ……」
 鼻で笑ってやるつもりだったのに、最後まで言い切らないうちに惨めになって涙が浮かんできた。
 ぽん、と頭にのった兄ちゃんの手を振り払う。兄ちゃんは振り払われた手を膝に置き、眉尻を下げた。
「……そうだね。俺に謙斗の気持ちはわからないよ」
「だったら黙っててよ」
「わかった。だけど帰ってくるたびに歯の治療で謙斗を泣かせてる俺の気持ちもわからないだろ」
「わかるよ。ばかなやつ、可哀想なやつって思ってんだろ」
 歯学部に行ってからというもの、俺を見る周囲の目なんてそんなものだ。兄ちゃんだって表向きはきっと認めないけど、本心では同じように思ってるに違いない。
「嘘ついてもわかるから。認めろよ」
 兄ちゃんはしばらく無言だった。言い訳でも考えてるんだろうか。袖で涙を拭って兄ちゃんを睨む。
「ばかなやつ、可哀想なやつね。……一度くらいそう思ってみたかったかもな」
「……は」
「これは前に衛に言われたんだけどね。人は誰かを可哀想だと思うとき、その相手を自分より下に見てるらしい」
「なんの、話だよ」
「俺が謙斗を見下せるわけがない。……俺は医学部を狙えるような成績だったことなんてないし、俺が浪人したいとか、再受験したいとか言っても父さんにはきっと一蹴された。謙斗は勉強以外も、部活とかもよく賞をもらってたし……正直ずっと悔しかったよ」
「そんなわけ……」
 だって兄ちゃんは昔からしっかり者で、父さんや母さんもいつも兄ちゃんのことを褒めて……褒めて、たっけ?
 今まで気にしたこともなかった。思い返して初めてその事実に思い当たる。俺が父さんや母さんからたくさんもらった褒め言葉を、兄ちゃんが言われているのを聞いたことがない。
「そうなんだよ、本当に。歯だって……父さんが俺には厳しかっただけなんだ」
 だけど結果的には俺たちは同じ歯科医になる道を進んで、それで虫歯になったことがないなら、兄ちゃんのほうが勝ちじゃないか。そう思ったけど、兄ちゃんの寂しそうな顔を見ると言えなかった。
 兄ちゃんは家族に対して、どういう感情を抱いてきたんだろう。
「ごめんな。こんな話して」
 くしゃくしゃと頭を撫でられる。今度は振り払えなかった。
「勘違いしないでほしいのは、俺は謙斗のこと本当にすごいと思ってるし、謙斗が好きだよ。謙斗ならいい歯医者さんになれるって思ってる」
 兄ちゃんは俺のことを疎ましく思ってるんじゃないか。そんな不安に答えてもらったみたいだった。
「だからつい、うるさいこと言った。ごめんな」
「……俺も……」
 ごめん、と言いたかったけど肝心の一言が出てこない。だけど、俺の都合のいい思い込みかもしれないけど、わかってるとでも言うようにまた俺の頭が撫でられた。
「俺は謙斗に元気でいてほしいんだよ。歯が痛いのも自分が苦しいのも隠して、辛いのは謙斗だろ」
 兄ちゃんは俺が虫歯だけじゃなく自分の気持ちもすぐごまかそうとするのに気づいてるんだ。
 ん、と小さく頷いた。
「準備してくる」
 優しく俺に笑いかけて兄ちゃんはスツールから立ち上がった。