ハレーション - 1/14

匡一きょういちさん、もしかして歯痛い?」
 飲み会の最中、向かいの席に座る梅村ただしに問われ、桑山匡一の箸が止まった。
 小料理屋の座敷には4人掛けの食卓が4つ並んでおり、歯科衛生士の匡一が働く歯科医院のスタッフたちが集まっていた。席を移動した者もいるので匡一といま同じ食卓についているのは歯科技工士の梅村だけ。
 匡一の耳には周囲の話し声が突如遠くなったように聞こえた。
「どうして?」
 端正な顔に笑みを張り付け、匡一は問いを返す。
「なんとなく噛みにくそうに見えたから。左じゃない?」
「……分かるんだ。さすが」
「大したことじゃないけど。どうしたの? 虫歯?」
 匡一は答えに詰まる。この仕事をしているにも関わらず自分が診療を受けるのは苦手だった。左上6番が痛いのは事実でも、虫歯かどうかは分からないと思いたい。そもそも話題にしたいことではない。歯が痛いかという質問にすら本当は答えたくなかった。
 しかし上手に嘘をつけるとも思えない。匡一が口を開きかけた時、別の声がそれを遮った。
「そんなわけないじゃん」
 歯科医師の坂梨皓大こうだいだ。もともと匡一の隣に座っていたがつい先ほどまで別の食卓で談笑しており、大きな笑い声が匡一の耳にも届いていた。
 ビールジョッキを片手に戻ってきた皓大は腰を下ろし、匡一の肩に腕を回す。
「品行方正、優しくてかっこいい予防のプロの匡ちゃんに虫歯なんかあるわけないでしょ?」
 梅村が顔を顰めた。
「決めつけはよくないと思うけど」
「まあそうね。でもあってもなくてもよ。虫歯?なんていきなり訊くことじゃないっしょ」
 ねえ匡ちゃん、と視線を向けてきた皓大に匡一は苦笑する。
「皓大、飲み過ぎだよ」
「まだ酔ってないって」
「酔ってるよ。俺のこと変な風に言わないで」
「本当のことじゃん。直くんも匡ちゃんに一回スケーリングしてもらいな? マジで優しいし上手いから」
「皓大」
 窘めるように言うと、皓大はにへらと笑いまた別の席へ行ってしまった。梅村が半ば呆れたようにその姿を目で追う。
「坂梨先生って本当に気まま」
「昔からそうだよ。羨ましいくらいにね」
「匡一さんと坂梨先生って同級生なんだっけ?」
「同級生というか同学年というか……クラスは違ったんだけど、部活が一緒で」
「高校?」
「中学と高校」
「そんな長い付き合いなの」
「長い……かな? でもそうか、知り合って15年以上にはなるのか。早いね」
 中学校に入学したての頃、サッカー部の見学に一人で来ていた隣のクラスの生徒。それが皓大だった。匡一も含め多くの生徒が友達と見学に来ている中、一人で寂しそうに見えた彼に何となく声をかけたあのとき、こんなに長い付き合いになるとは思ってもみなかった。
「まさか同僚になるとは思わなかったな」
 ビールジョッキを爪でカツンと弾いた匡一を見て、梅村が尋ねる。
「嬉しくないの?」
「なんで?」
「なんとなく。そう見えた」
「嬉しくないわけじゃないよ」
 県外の大学を卒業後、その地で就職した皓大が帰ってきたのは昨年のこと。皓大の父親が腰を痛め、実家の歯科医院を手伝ってくれないかと頼まれたらしい。実家を手伝う傍ら、外でも経験を積みたいと掛け持ち先を探していた皓大がやってきたのが匡一の働く歯科医院だった。
 サッカー部では息の合ったプレーをすると評判だったが、サッカーでなくても同じなのか、皓大とは特別仕事がしやすく感じる。彼のことを信頼しているし、彼も匡一を信頼しているのが伝わってくる。同僚になったのは嬉しいことのはずだった。
「嬉しいんだけどね……なんか時々、素直にそう言えないというか」
「素直に言えない?」
「そう。自分でも上手く表現できないんだけど。ほら、皓大ってすごく魅力的な人じゃない?」
 梅村は肯定とも否定とも取れないような相槌を打ち、二つ隣の食卓に目を向ける。匡一もその視線を追うと、その先には皓大がいた。先ほどとはまた違うスタッフたちと楽しそうに話している。
「まあ明るい人ではあるよね」
「ね。明るいだけじゃなくて、聡くて、強くて。人を惹きつける力がある」
 梅村が匡一に視線を戻した。
「……匡一さんは、坂梨先生のことが好きなんだね」
「どうしてそんな話になるの」
「だって俺は坂梨先生のこと、そこまで思ったことないから。俺からすれば匡一さんのほうがよっぽど魅力があると思うよ」
「いいよ、気遣わなくて」
 そんなことを言われたのは初めてだった。皓大と一緒にいると匡一はいつもおまけで、「桑山匡一」ではなく「皓大の友達」。そんな覚えられ方をしていた。
「気を遣ってるわけじゃない」
 梅村が語気を強める。
「本気で思ってる。坂梨先生はなんかこう、直射日光みたいな。けど匡一さんは木漏れ日って感じで俺は落ち着く……ます」
「ふふ。どうしたのその語尾」
「言ってるうちにちょっと恥ずくなった」
 頰から耳を淡く染め、梅村は照れ隠しのようにビールを飲む。
「ありがとうね。皓大が直射日光はちょっと分かる気がする」
「そういうところが好きなの?」
「うーん……そういうところが、素直になれない理由」
 烏滸がましくて嫉妬とは言えないが、尊敬と言えるほど澄んでいない。
 坂梨皓大は、眩しすぎる。
 それが匡一の正直な感情だった。