昼食が終わったあとの恋人からは今日も甘い匂いがする。
「また飴食べてんの」
「うん。あ、うちでも売ってるのだから」
「あっそ」
甘いものは控えろと俺が言う前に先回りされてしまった。
つい先日虫歯が4本あることが判明して現在治療中、今日も診療後に治療をする予定という状況なのに甘いものをやめられないのは少し心配になるが、食べるものは選んでいるようなので良しとしよう。
「そういえばお前にちょっと相談があるんだけど」
「なに?」
「最近診てる子のことでさ」
だいぶ自然に言えたと思ったが、彼は不思議そうに首を傾げた。
「最近小さい子の担当なんてしてたっけ」
「してるの。お前は気づいてないかもだけど」
「そうなんだ」
だいぶ力技だが彼はあっさり納得したふうだった。
「それで、その子が怖がりっていうか治療嫌がるんだよ。最初は慣らすために小さい虫歯から治したんだけど、別に痛くもないとこで愚図ったりしてなかなか治療進まなくて」
ふんふん、と大真面目な顔で相槌を打つ彼。若干脚色しているとはいえ、まさか自分の話をされているとは思っていないだろう。
そう、これは別の患者さんの相談と見せかけて彼本人の意見を聞き出す作戦だった。
素直に尋ねればきっと恥ずかしがって答えてくれない要望も聞きたいし、彼の専門は小児歯科だ。子どもでなくとも治療が苦手な人の対応には詳しいんじゃないかと見込んでの相談だった。
「どうしたらスムーズに治療受けてくれるのかなと思ってさ。どう思う?」
「そうだなぁ……痛いとか痛くないとか関係なく小さい子は歯医者さん怖いもんね」
「小さい子『は』?」
「え?」
「いやなんでもない」
子ども以上に怖がりな大人が目の前にいるのでつい突っ込んでしまった。せっかくぼかして相談しているのに余計なことを言わないように気をつけなければ。
「説明はしてる? この器具はこういうことするんだよーとか、痛くないよーとか」
「プロだからわかってると思う」
「え?」
「いやっ、なんでもない! 説明してる」
「ほんとに?」
「ほんとに! 痛くないよも散々言ってる!」
「そっかー……」
何か考えている様子の彼。もしや、バレたか? 口滑りすぎじゃないか、俺。
彼の次の言葉をひやひやしながら待つ。
「じゃあ、次は実践かな」
「実践?」
「口の中にバキュームとタービン入れて、歯には触らないで、とりあえず音に慣れてもらうとか」
「なるほど……?」
散々聞いているんだから、音には慣れていると思う。自分の口の中から聞こえてくる感覚は違うかもしれないが。
「それで、音が大丈夫そうだったら?」
「そのまま削り始める」
平然と言われて思わず目を剥いてしまった。
「急に雑じゃないか!?」
「多少の強引さは必要だよ。でも5秒だけ試しにやってみようねーみたいな感じで、最初は時間区切るのがいいかもね」
「……で実質10秒になるんだろ」
「まあそうなるよね」
笑顔で「まあそうなるよね」とか言ってるがこの男、自分がやられると口を閉じかけてみたりもぞもぞ動いてみたり、まだ終わらないの?アピールをしてくるのを俺は知っている。
「お前怖い」
「ん? そうかな。やってみたら意外とできる子も多いし。それに、いつまでも待ってたところで虫歯は悪化していくわけだしね。いつかは治療しないといけないんだよ」
「まったくもってその通りだな」
自分に聞かせてやってくれ、その言葉を。
「どうかな。参考になりそう?」
「……参考にしていいんだな?」
「うん? 役に立てたら嬉しいけど」
「言ったからな?」
今日の診療後、さっそく参考にしてみようと思う。
そして診療後。
「今日はどこするの」
ユニットに仰向けになった恋人は早くもやりたくないオーラ全開で俺を見上げてくる。昼間に余裕のある態度で説明をしてくれたお前はどこに行った。
「左下5番。ここも大して酷くないし、痛くないから。な? そんな顔すんな」
「麻酔は?」
「しなくても大丈夫だと思うけど、念のためしとくか。そのほうが安心だよな」
表面麻酔を塗布してしばらく待つ。
そういえば昼に相談したとき、説明をしたほうがいいと言っていた。あのときはプロに説明なんか必要ないと思って真剣に考えなかったが、案外、患者になってみると説明がほしいものだろうか。
けど。そろそろ良い頃合いかと、手にした注射器に目を落とす。
さすがにこれに説明はいらないだろう。説明するにしても「今からこの針を刺すよ」とかわざわざ言うのは絶対に逆効果だ。説明はなしだな。
「口開けて」
頬をミラーで引っ張って、なるべく注射器は見えないように、そして痛くないように、まずは水平方向から浅く針を刺す。
「痛くないから、力抜いて」
ぎゅっと目を閉じて体を硬くしている恋人に声をかけつつ、ゆっくりと薬液を入れていく。
何回かに分けて麻酔を済ませ、ユニットを起こすと、彼はやっと肩の力が抜けたようだった。
「あのな、何度も言うけど痛くないから。虫歯も大きくない、念のために麻酔だってした、わかるよな? 痛くなる要素ないから」
麻酔が効くのを待つ間そう言って聞かせるが、恋人はやはり不安そうな表情だった。
「でも、もし中で広がってたりしたら」
「デンタル見たろ? そんなことないと思うけど……。まあ万が一痛かったらすぐ言って。麻酔足す」
「うん」
「言っとくけど、痛かったらな。怖いから止めては今日はなしな」
この前の治療で怖いから止めてを毎回聞いていたらいっこうに治療が進まなかったので、今回は先に釘を刺しておく。
「……うん」
不満そうだが多少の強引さは必要とこいつも言っていた。
「よし、じゃあそろそろ始めるか」
再びユニットを倒す。
そうだ、説明。今はしてもいいんじゃないか。こいつに必要があるのかはわからないが、試しにやってみるか。
「知ってるとは思うけど、こっちがバキュームな」
「……え?」
「ほら、吸うだけ。痛いやつじゃないよな」
「え、え? どうしたの急に」
「で、こっちが」
キュイーン、とタービンを空回りさせるとびくっと恋人の肩が跳ねた。
「歯を……」
あれ、これどう説明するんだ? 削るとか言ったら怖くなるだけだろ。
「そうだな、歯を、えっと、悪いところを取って綺麗にするやつ。今日は痛くない。まあちょっと激しい歯磨きと思ってくれれば」
……我ながら今のは無理があった。
というか逆効果だろこれ。こちらを見上げてくる恋人は涙目になっている。誰だ説明するほうがいいって言ってたやつ。
「なんでそんなことするの?」
お前が言ったからだよ。とは言えなかった。
やっぱり、未知のものが怖い子どもと慣れ親しんだものが怖い歯科医に同じ対応をして上手くいくわけがない。実行してしまった俺にも責任がある。
「悪い。痛くないってわかってほしかったんだって」
「わかってるよ頭では……」
「なら、次はやってみようか。な? あー、して」
「もう少し待って」
完全にマズった。これじゃ前回と同じだ。こいつがこう言うといくらでも待たされる。
それなら。さっき失敗したのであまり気は進まないが、昼にこいつが言っていた方法を使ってみるか。
「じゃあ、口に入れるだけ。ちょっとずつ慣れてこうか」
「待ってって」
「大丈夫だから。痛いことしないよ」
ほら、と唇を押し下げてみると、小さく口が開かれる。その隙間に指を引っかけ、まずはバキュームを入れる。
「ん、ぅ」
「しっかり口開けないと苦しいぞ」
少し口が大きくなったのですかさず「ちょっと大きい音するよ」と言いながらフットペダルを踏み込み、タービンを口の中に入れる。
「んー!」
「なんもしてないだろ。ほら、大丈夫だから……な、音が大きいだけだって」
「……っ、う」
「だいじょーぶだいじょーぶ。怖くないな?」
「……んぅ」
だいぶ嫌そうではあるが、おとなしく口を開けている。そろそろいけるか。
「じゃあ5秒だけ頑張ってみような」
「んぇ、まっ……」
「ほら、あーん。手出さない。口閉じたらケガするぞー」
手を伸ばして口を閉じて妨害しようとしてくるのを留めて、少し強引な気はしたがバーの先を歯に当てる。
「痛くないだろ?」
「……」
覚えてろ、とでも言いたげに見られているのを感じたが手元に集中する。
たぶん、昼間自分が言ったことをやられているのに気づいただろう。
素直にどうしてほしいのか聞いたほうがよかったかもしれない。治療が終わったら感想を、というかクレームを聞く羽目になりそうだ。