内田に迷惑をかけていた。だからこの先は彼の力を借りずなんとかしなければならない。
もとはと言えば内田に検診を頼まれたはずだったのに逆に俺の治療をさせることになってしまった。しかも虫歯の本数は多く程度も軽くない。初めこそ内田に引かれたのではないか、迷惑をかけているのではないかと心配していた俺だったが、内田がそう思っている素振りを見せないものだからすっかり甘えてしまっていた。それがよくなかったのだ。
「本条先生じゃないですか、お久しぶりです」
昼休憩中、医院の裏口から外に出た俺は携帯で前勤務先に電話をかけていた。電話の向こうから明るい女性の声がする。受付も担当している助手の三吉さんだ。
「お元気ですか?」
元気だったらこんな電話はかけていないのだが、まあこれは社交辞令的なものだ。元気です、とそつなく返した。歯以外には何も異常はないし、全くの嘘でもない。
「どうされたんですか? どなたか先生に繋ぎます?」
「いや、大丈夫です。予約をしたくて」
「予約?……って検診とか、ですか」
「はい、それと治療もしてもらえたら」
「えっ、治療? どうしたんですか本条先生」
前勤務先にいた頃からかなりの数の虫歯を放置していたから、てっきりスタッフにはそのことを知られていると思っていた。でもこの驚きよう、もしかすると上手く隠せていたのかもしれない。それとも、今頃治療する気になったのかという驚きなのだろうか。どちらでもいいか。
「虫歯があるので治療してもらいたいんです。できれば、花北さんに」
「花北先生ですね。けっこう予約埋まってるんですよね……」
三吉さんが予約の空きを調べてくれているらしい。電話の向こうでパソコンを操作している気配がした。
「別の先生に診てもらったらどうだ」「前の職場に尊敬してる先輩がいるって言ってただろ? その先生とかどうなんだ」数え切れないくらい頭の中で繰り返した内田の言葉をまた思い出す。尊敬してる先輩というのが花北さんのことだった。
内田にああ言われて以来、右上以外の虫歯は治療せず放置したままだった。そんな様子を見かねたのだろう、内田は他の所も治療しようと何度か申し出てくれたが俺が全て断り、そうしているうちに彼は他の虫歯のことには触れなくなった。
明日、また内田に会って右上6番の治療の続きをしてもらう。明日はコアを立てる予定で、治療はもう終盤だった。完全に終わるまでに一つでも別の箇所を治療しておきたい。内田が俺の治療を負担に感じているのは間違いないが、彼は困っている人がいると見過ごせない性格だ。俺がちゃんと別の歯医者に通い始めれば、内田も安心して後味が悪くない状態で右上の治療を終えてくれると思う。
「花北先生、予約取れるのは最短で1週間後ですね。金曜日。……でも、本条先生もお仕事でしょう」
「そう……ですね」
早退するという手もあるが、仮にも一歯科医院の責任者が自分の通院のために早退するなんてあり得ない話だ。
「診療終わった後とかに来られたらどうですか? 花北先生に相談してみましょうか」
「それは嫌です」
思わず強い口調で答えてしまった。それだと内田に迷惑をかけたのとまた同じことになる。
「その次の日はどうですか」
「土曜日……あ、1枠だけ空きがありますね。午前の最後ですけど」
「じゃあそこでお願いします。こっちの医院は休診日なので」
「わかりました。でも本条先生、律儀ですね。こんなふうに予約取る先生あんまりいないんじゃないですか」
三吉さんの小さな笑い声が聞こえる。歯科医が知人に治療を頼むのにわざわざ勤務先の固定に電話して予約を取るケースはたしかに珍しいだろう。花北さんにもせめて一本連絡を入れておいたほうがいいだろうか。あとで考えよう。なにはともあれ予約ができてよかった。これで明日、内田にも報告ができる。
「じゃあお待ちしてます。本当に花北先生には代わらなくていいんですか?」
「大丈夫です。ありがとう、三吉さん」
「いいえー。それじゃ、失礼します」
終話ボタンを押す。冷たい風が吹き抜けて医院の周りに植えられた木々を揺らした。よかった。よかったんだ、これで。これが一番正しい行動だ。俺は今度こそ間違っていない。
携帯の画面を消した時、後ろから扉の開く小さな音が聞こえた。
「本条先生、ここだったんですね」
かけられた声に振り向くと同僚の一人が裏口の扉を少し開けてこちらの様子を窺っていた。
「ちょっと相談が……というか、大丈夫ですか? 寒かったんじゃ……中入りましょう」
「あ、ああ」
彼に続いて建物の中に入る。そこで暖かさを感じて初めて、体が冷えているような気がしてきた。上着を来て出るべきだったかもしれない。
そういえば、内田もお前は服装に無頓着すぎるといったことをよく言っていた。洒落た格好をしろとは言わないから気温に見合った格好をしろ、と言っては自分のマフラーを巻いてきたり上着を着せてきたり……今になってみるとあれも内田にとってはいい迷惑だっただろう。
「……あの、本条先生ほんとに大丈夫ですか? 風邪ひいたんじゃないですか」
「いや、大丈夫だ」
とても心配そうに顔を覗き込まれているが、体調なんてどこも悪くないのに不思議だ。そんなに寒そうな顔をしているのだろうか。変な誤解を与えてしまい申し訳なくなってくる。「それで相談というのは」と、同僚に本題に入るように促した。